「え、何……わあッ!?」
ナガセが慌てて立ち上がる。
今や洞窟内は、紛れ物の全く無い、真の暗闇だった。
レミーラの効力が切れたのだ。
照明の呪文、切れるときは、突然切れる。
タイチに言われてはいたが、あまりに虚を突かれて、ナガセはその場から動けなくなってしまった。
もっとも、静止は、懸命な判断でもあった。
ナガセのすぐ眼前は、床石の抜け落ちた通路だったからだ。
迂闊に移動すれば、足を滑らせて下のフロアに叩きつけられていたことだろう。
照明の呪文を失った洞窟の石壁は、ただ暗黒が続くだけの衝立でしかない。
いや、それは正確な表現ではなかった。どこに衝立が存在するかどうかも分からない。
光一筋も差し込まない黒単色の世界である。何も見えない。
―――?
ナガセは、何故か唐突に、言い様のない不安に駆られる。
「待って、レミーラかけ直す」
タイチの声で、かろうじて冷静さを引き戻した。まだ、闇に瞳孔が慣れてきていない。
ナガセは忙しなく眼を動かして、黒の世界の本来の姿を目蓋の裏に描こうとした。
目測を立てれば、動ける気がする。
「……動くな」
だが、矢先に聴こえたヤマグチの押し殺した声が、同時に両手剣の柄に指を掛けた気配を伝えたことで、ナガセは再び針に刺された。
剣を抜き放っているのだろう。
ほんの少しでも明かりがあれば照り返すはずの抜き身すら、確認できない。
通気口が取り込む外気が、妙にひんやりと頬を掠めていく。
そういえば数刻前、夜目の聞く魔物に襲われるよりかは、と言ったのは誰だっただろうか。
ナガセの耳は、風の擦れる音に誤魔化された、何かの物音を聞いた。
いや、それは何者かの、小さな声だ。
「……タイチくん?」
呪文の詠唱かと思ったのだが、違う。
タイチの声ではない。まして、シゲルやマツオカの声でもなかった。
低い唸りのような、奇妙に甲高さが入り混じった声。人のものではない。
誰のものでもなく、人のものでもない、ということは、だ。
背筋の寒くなる事実に、ナガセが気付きかけた時、それは突然に起きた。
「ナガセ、危な……!」
「え?」
どん、と左肩が急激に重くなる感覚があった。一瞬、魔物に殴りつけられたのかと思ったが、痛みは全くない。
肩越しに感じる人の気配、徐々に折り連なるのは人の重さだ。
ナガセは即座に理解した。
「え?……ちょ……っと! リーダー!?」
照明の呪文。発動したレミーラの呪文が、再び、洞窟内に光を行き渡らせたのだ。
ようやく慣れ始めた夜目の感覚に遅れて、眼が眩む。
未だ視界の戻らぬ眼に悪態を吐き、ナガセは腕の触覚を頼りに左肩の重みを抱えた。
シゲルが、ナガセの方へと倒れこんでいたのだ。
慌てて背中越しに支えるが、ぐったりとして意識はない。
「リーダー!」
「ナガセ……前だ!」
あの数秒の暗闇で、魔物の群れに取り囲まれていたのだ。
魔物の気配は無かったはず、だが。
作為的、とさえ読める統率の取れた動き、明らかに不意打ちを狙っていたとしか思えない。
動けないナガセの正面に迫る巨大な羽虫を、マツオカの短剣が切り落とした。
この魔物の群れには、頭格がいる。
でなければ、闇に落ちる時を待ち、タイミング良く攻勢に打って出る真似など出来ないだろう。
ヤマグチの眼は、アルミラージの背後に身を隠す頭格の存在を見抜く。
「……タイチ!」
刹那、うち二人の行動パターンが変化した。
前衛に躍り出たヤマグチが、魔物の一体を跳ね除け、距離を開ける。
「――“切り裂け”」
そのわずかな隙で間合いを測ったタイチは、素早く飛剣を手放した。
手放したと解釈される以上に攻撃的な軌道を描いた飛剣が、ナガセの眼前に迫っていたアルミラージを打ち倒す。
空いた利き手で切った印と、呪文の詠唱が完了するまでに、十分な時間稼ぎであった。
「“疾空の刃”!」
魔力で象られた風の刃が、空気の動かない地下洞窟を揺るがした。
魔物の群れをなぎ倒す、白き疾風が横一線に吹き抜ける。
青の魔力に分類される、風の攻撃呪文。
「バギか。すげぇな」
さすがは、かつては冒険者として腕を振るっていた経験の持ち主たちである。
危機的状況からの冷静な判断と、見事な連携。マツオカは感心する。
熟練戦士の両手剣は的確にモンスターの群れの頭を捉えていたようだ。
しかし、妙なことに、剣の切っ先は風の魔法によって倒された魔物自体ではなく、その背後の床に突き立てられている。
バギに当たり損ねたさそりばちの二、三匹が、洞窟の奥へと散って行くところを見ると、どうやら群れの司令塔は倒したらしいのだが。
「……あれ? どういうこと、それ?」
「大丈夫だ。もう仕留めた」
マツオカは、ヤマグチが仕留めたらしい魔物の傍に、そろりと近づいた。
手前で息絶えているアルミラージが、親玉とは考えにくい。
ヤマグチが、くいと顎を向けるのは石の床。
無論、ただの石の床、のはずがなかった。両手剣の切っ先が刺さる魔物の影。
「これって……」
マツオカは絶句する。
照明の呪文の効力により光の行き渡った洞窟内部にあって、出来るはずのない場所に存在する、異様な影。
それは、魔物の影の部分に存在する、モンスターだったのである。
「“シャドー”だ」
如何とも形容し難い不気味な姿に、マツオカは眉をひそめる。
図鑑か何かで見たことはあるが、実際に目にするのは、勿論初めてだ。
今までに遭遇してきた、ある意味で血の通ったモンスターとは一線を隔す、無機物的な魔物。
「レミーラが切れた瞬間に移動してきたんだろうな」
影の魔物は光の中ではほとんど動けないが、闇から闇への移動速度は段違いに速い。
照明の呪文が効果を無くしてゆく闇の中を移動し、他のモンスターの影に取り憑いて群れを操っていたのだろう。
立ち尽くすマツオカの横から、ひょいとタイチが覗き込む。
「うわ、本当にシャドーだ。この辺にはいないモンスターだと思ってたけど」
「ま、何年も放置されてた地下遺跡だ。シャドーの一匹二匹、住み着いててもおかしくは……」
「……おかしくはない、わけ?」
マツオカの不審げな問いに、ヤマグチはしばらく固まった。
首を少し傾ける。降参、の意を含む疑問返しだ。
「いや、うん。確かにちょっとおかしい、よな……」
モンスターは、そもそも自らの住処を頻繁に移動するものではない。
まして、今、彼らの眼前に横たわるシャドーなど、無形の魔物の多くは、ダンジョンの持つ元来の地形と渦巻く魔力の奔流が合わさって生み出され、大陸の一部の、限られた場所にしか生息しないと言われている。
つまり、場所によって、生息するモンスターが自然と決まってくるわけだ。
『いざないの洞窟』が、シャドーが元から生息するダンジョンではないことは明白だった。
「……やっぱ、あの噂も、あながち間違いじゃねーのかもな」
「あの“噂”って?」
「魔物が強くなってきてる、って話。僻地にしかいなかった魔物が生息範囲を広げてたり。大陸の方じゃ、街のすぐ傍まで魔物が寄ってきてるって話も聞くし……」
ヤマグチが両手剣を床から引き抜くと、影の魔物は音も無く、炭の粉が空気に散っていくように消滅した。
日ごろの習慣で、モンスターとの戦闘の後は十字を切っていたマツオカだったが、さすがに今回ばかりは、気分が萎えてしまったらしい。
何故だか、少し落ち込んだようにも見える。
タイチが何か言葉をかけてやろうか、と迷っているところに、
「……ヤマグチくん! マボ、マボっ」
突然、ナガセの切羽詰った声が、割って入った。
床に倒れているシゲルの肩を必死に揺すっているが、反応が無い。
シゲルは、モンスターの攻撃からナガセを庇い、倒れたのだ。
「ああ! ってゆか、そうだリーダー! 大丈夫なの!?」
「しっかりして、リーダー!」
ナガセが、倒れ伏すシゲルを抱き起こす。
外傷らしき怪我は見当たらない。
慌てて駆け寄ったマツオカが癒しの呪文を唱えようとしたが、ヤマグチがそれを制した。
「いらねぇよ、回復魔法。やるだけ無駄」
「はあ!? 何で!」
「あ?……あれ?」
さて、そこでナガセは気が付いた。
規則的に上下動する肺。
気持ち良さそうな寝息。
……寝息?
「…………ぐぅ」
シゲルは、と言うと、眠りこけていたのだった。
実にすやすやと。
マツオカが、思わず全力で叩きそうになった手の平を、我慢と忍耐で押し戻す。
「寝てる……だけかよ……!」
「眠りの呪文ってねー、“まほうつかい”が使ってくる十八番呪文。群れに一匹、紛れてたんだ」
「あーそうだ! モンスター対処法その8!」
「こんだけ見事に呪文にかかるのも、リーダーぐらいのもんだろうけど……」
道理で、ヤマグチもタイチも落ち着いているわけである。
焦って損した。
洞窟の石壁相手にやり場の無い緊迫感をぶつける二人を他所に、熟睡している魔法商人は、一向に目覚める様子が無い。
なるほど、確かに寝ている間なら完全に無防備だ、と、ナガセに野宿の危険性を再認識させた第三視点である。
「あ、覚醒の呪文あるよ。使う?」
「要らねぇよ。放っときゃ起きるし。何なら、手っ取り早く殴るか……」
がばり、と突然シゲルが直角に起き上がった。
「……トロルに襲われる夢見たわ」
「ナイスシンパシー。ってか、よくその短時間で」
「おはよーございます……」
一気にローテンションとなったナガセの挨拶に、寝汗を拭いつつ応えるシゲル。
呪文による強制的な誘眠の割に、目覚めは快調らしい。
表情も昼寝後のようにすっきりしている。
「ん……もしかしてラリホーかかってたんか? やっぱり? いやぁ、ありがたいわ。最近寝不足気味でなぁ。何か眠いなー思てたら、こう、コテンと……」
「それ一人旅だったら確実にあの世行きだよ、リーダー」
「ってゆかアンタはむしろそのまま永遠に眠れ……!」
白い目を向けるタイチと、ハリセンを鬼棍棒のごとく構えるマツオカの二連つっこみが、爽やかな笑みを浮かべるシゲルの寝汗を、早々に冷や汗に変えたようだ。
ハリセン、そのうち鉄製になるんではないか。
シゲルが負けじと、そんなことを言い返そうとしたが、吹っ飛んできた聖なるナイフの柄が直撃したため、以降押し黙った。
(とは言え、実際、鉄製のハリセンは確かに武器として使われているのだが。)
「先刻の魔物の群れは、この通路から移動してきたのか」
ヤマグチが通路の端で立ち止まっている。
T字路の左、細い抜け道があったのだ。
緩やかに歪曲しながら伸びる通路に気を取られて、ぱっと見ただけでは存在に気付かなかった。
きっと大昔においては、勝手口のような扱いだったに違いない。
「ああ……ちょうど、僕らがこれから行こう思てるルートや」
「ええっ? まさか、またモンスターわんさか居るんじゃないの?」
「まぁ、今出てきたから、しばらく出ないでしょ」
「そんなもんなの?」
楽観視しすぎな気もするが、これでマツオカの心身もだいぶ軽くなったようだ。
洞窟の入ってからの連戦続きで、おまけに不気味な魔物に出くわしたのであっては、さすがに精神的に疲労が溜まっていたのだろう。
もうあと半刻ほど、とシゲルが長めの目算を付けた。
ナガセは終着点が近いことを素直に喜ぶのだろう、と思っていたのだが、意に反して、難しい顔のまま座り込んでいる。
「……ナガセ? 何ぼーっとしてんだ」
「え? あ、ああ……うん」
ナガセは、はたと今しがた気付いたように、ヤマグチにぼんやりと生返事する。
心ここにあらず、と言った風だ。
「ああ。ナガセ、暗いとこダメだもんな」
「うんと、それもそうなんだけど。うーん、そうじゃなくてさぁ……」
「ほら、さっさと行くぞ。もうレミーラ切らしたくないだろ?」
タイチに促されたナガセは、仕方なく重い足を引きずった。
あれは、黒の世界だった。
見覚えがある、一つの世界の姿だった。
暗闇への恐怖、と単純には括れない何かの“思い出”だ。
何処かで見たはずなのに、思い出せない。
これは、何時の記憶なのだろうか。
不意に、ナガセは戦慄した。
こんな時にこんな所で、恐ろしいことを考えてしまった、自分の危うさに気がついた。
もしも一人欠けたら―――オレたちはどうなるのだろう。
そんなことはありえない、と、言い切れる自信は、今のナガセにはなかった。
ナガセが慌てて立ち上がる。
今や洞窟内は、紛れ物の全く無い、真の暗闇だった。
レミーラの効力が切れたのだ。
照明の呪文、切れるときは、突然切れる。
タイチに言われてはいたが、あまりに虚を突かれて、ナガセはその場から動けなくなってしまった。
もっとも、静止は、懸命な判断でもあった。
ナガセのすぐ眼前は、床石の抜け落ちた通路だったからだ。
迂闊に移動すれば、足を滑らせて下のフロアに叩きつけられていたことだろう。
照明の呪文を失った洞窟の石壁は、ただ暗黒が続くだけの衝立でしかない。
いや、それは正確な表現ではなかった。どこに衝立が存在するかどうかも分からない。
光一筋も差し込まない黒単色の世界である。何も見えない。
―――?
ナガセは、何故か唐突に、言い様のない不安に駆られる。
「待って、レミーラかけ直す」
タイチの声で、かろうじて冷静さを引き戻した。まだ、闇に瞳孔が慣れてきていない。
ナガセは忙しなく眼を動かして、黒の世界の本来の姿を目蓋の裏に描こうとした。
目測を立てれば、動ける気がする。
「……動くな」
だが、矢先に聴こえたヤマグチの押し殺した声が、同時に両手剣の柄に指を掛けた気配を伝えたことで、ナガセは再び針に刺された。
剣を抜き放っているのだろう。
ほんの少しでも明かりがあれば照り返すはずの抜き身すら、確認できない。
通気口が取り込む外気が、妙にひんやりと頬を掠めていく。
そういえば数刻前、夜目の聞く魔物に襲われるよりかは、と言ったのは誰だっただろうか。
ナガセの耳は、風の擦れる音に誤魔化された、何かの物音を聞いた。
いや、それは何者かの、小さな声だ。
「……タイチくん?」
呪文の詠唱かと思ったのだが、違う。
タイチの声ではない。まして、シゲルやマツオカの声でもなかった。
低い唸りのような、奇妙に甲高さが入り混じった声。人のものではない。
誰のものでもなく、人のものでもない、ということは、だ。
背筋の寒くなる事実に、ナガセが気付きかけた時、それは突然に起きた。
「ナガセ、危な……!」
「え?」
どん、と左肩が急激に重くなる感覚があった。一瞬、魔物に殴りつけられたのかと思ったが、痛みは全くない。
肩越しに感じる人の気配、徐々に折り連なるのは人の重さだ。
ナガセは即座に理解した。
「え?……ちょ……っと! リーダー!?」
Level 07+b. いざないの洞窟の5人-(3)
視界が、ごく小さな一点から急激に晴れた。照明の呪文。発動したレミーラの呪文が、再び、洞窟内に光を行き渡らせたのだ。
ようやく慣れ始めた夜目の感覚に遅れて、眼が眩む。
未だ視界の戻らぬ眼に悪態を吐き、ナガセは腕の触覚を頼りに左肩の重みを抱えた。
シゲルが、ナガセの方へと倒れこんでいたのだ。
慌てて背中越しに支えるが、ぐったりとして意識はない。
「リーダー!」
「ナガセ……前だ!」
あの数秒の暗闇で、魔物の群れに取り囲まれていたのだ。
魔物の気配は無かったはず、だが。
作為的、とさえ読める統率の取れた動き、明らかに不意打ちを狙っていたとしか思えない。
動けないナガセの正面に迫る巨大な羽虫を、マツオカの短剣が切り落とした。
この魔物の群れには、頭格がいる。
でなければ、闇に落ちる時を待ち、タイミング良く攻勢に打って出る真似など出来ないだろう。
ヤマグチの眼は、アルミラージの背後に身を隠す頭格の存在を見抜く。
「……タイチ!」
刹那、うち二人の行動パターンが変化した。
前衛に躍り出たヤマグチが、魔物の一体を跳ね除け、距離を開ける。
「――“切り裂け”」
そのわずかな隙で間合いを測ったタイチは、素早く飛剣を手放した。
手放したと解釈される以上に攻撃的な軌道を描いた飛剣が、ナガセの眼前に迫っていたアルミラージを打ち倒す。
空いた利き手で切った印と、呪文の詠唱が完了するまでに、十分な時間稼ぎであった。
「“疾空の刃”!」
魔力で象られた風の刃が、空気の動かない地下洞窟を揺るがした。
魔物の群れをなぎ倒す、白き疾風が横一線に吹き抜ける。
青の魔力に分類される、風の攻撃呪文。
「バギか。すげぇな」
さすがは、かつては冒険者として腕を振るっていた経験の持ち主たちである。
危機的状況からの冷静な判断と、見事な連携。マツオカは感心する。
熟練戦士の両手剣は的確にモンスターの群れの頭を捉えていたようだ。
しかし、妙なことに、剣の切っ先は風の魔法によって倒された魔物自体ではなく、その背後の床に突き立てられている。
バギに当たり損ねたさそりばちの二、三匹が、洞窟の奥へと散って行くところを見ると、どうやら群れの司令塔は倒したらしいのだが。
「……あれ? どういうこと、それ?」
「大丈夫だ。もう仕留めた」
マツオカは、ヤマグチが仕留めたらしい魔物の傍に、そろりと近づいた。
手前で息絶えているアルミラージが、親玉とは考えにくい。
ヤマグチが、くいと顎を向けるのは石の床。
無論、ただの石の床、のはずがなかった。両手剣の切っ先が刺さる魔物の影。
「これって……」
マツオカは絶句する。
照明の呪文の効力により光の行き渡った洞窟内部にあって、出来るはずのない場所に存在する、異様な影。
それは、魔物の影の部分に存在する、モンスターだったのである。
「“シャドー”だ」
如何とも形容し難い不気味な姿に、マツオカは眉をひそめる。
図鑑か何かで見たことはあるが、実際に目にするのは、勿論初めてだ。
今までに遭遇してきた、ある意味で血の通ったモンスターとは一線を隔す、無機物的な魔物。
「レミーラが切れた瞬間に移動してきたんだろうな」
影の魔物は光の中ではほとんど動けないが、闇から闇への移動速度は段違いに速い。
照明の呪文が効果を無くしてゆく闇の中を移動し、他のモンスターの影に取り憑いて群れを操っていたのだろう。
立ち尽くすマツオカの横から、ひょいとタイチが覗き込む。
「うわ、本当にシャドーだ。この辺にはいないモンスターだと思ってたけど」
「ま、何年も放置されてた地下遺跡だ。シャドーの一匹二匹、住み着いててもおかしくは……」
「……おかしくはない、わけ?」
マツオカの不審げな問いに、ヤマグチはしばらく固まった。
首を少し傾ける。降参、の意を含む疑問返しだ。
「いや、うん。確かにちょっとおかしい、よな……」
モンスターは、そもそも自らの住処を頻繁に移動するものではない。
まして、今、彼らの眼前に横たわるシャドーなど、無形の魔物の多くは、ダンジョンの持つ元来の地形と渦巻く魔力の奔流が合わさって生み出され、大陸の一部の、限られた場所にしか生息しないと言われている。
つまり、場所によって、生息するモンスターが自然と決まってくるわけだ。
『いざないの洞窟』が、シャドーが元から生息するダンジョンではないことは明白だった。
「……やっぱ、あの噂も、あながち間違いじゃねーのかもな」
「あの“噂”って?」
「魔物が強くなってきてる、って話。僻地にしかいなかった魔物が生息範囲を広げてたり。大陸の方じゃ、街のすぐ傍まで魔物が寄ってきてるって話も聞くし……」
ヤマグチが両手剣を床から引き抜くと、影の魔物は音も無く、炭の粉が空気に散っていくように消滅した。
日ごろの習慣で、モンスターとの戦闘の後は十字を切っていたマツオカだったが、さすがに今回ばかりは、気分が萎えてしまったらしい。
何故だか、少し落ち込んだようにも見える。
タイチが何か言葉をかけてやろうか、と迷っているところに、
「……ヤマグチくん! マボ、マボっ」
突然、ナガセの切羽詰った声が、割って入った。
床に倒れているシゲルの肩を必死に揺すっているが、反応が無い。
シゲルは、モンスターの攻撃からナガセを庇い、倒れたのだ。
「ああ! ってゆか、そうだリーダー! 大丈夫なの!?」
「しっかりして、リーダー!」
ナガセが、倒れ伏すシゲルを抱き起こす。
外傷らしき怪我は見当たらない。
慌てて駆け寄ったマツオカが癒しの呪文を唱えようとしたが、ヤマグチがそれを制した。
「いらねぇよ、回復魔法。やるだけ無駄」
「はあ!? 何で!」
「あ?……あれ?」
さて、そこでナガセは気が付いた。
規則的に上下動する肺。
気持ち良さそうな寝息。
……寝息?
「…………ぐぅ」
シゲルは、と言うと、眠りこけていたのだった。
実にすやすやと。
マツオカが、思わず全力で叩きそうになった手の平を、我慢と忍耐で押し戻す。
「寝てる……だけかよ……!」
「眠りの呪文ってねー、“まほうつかい”が使ってくる十八番呪文。群れに一匹、紛れてたんだ」
「あーそうだ! モンスター対処法その8!」
「こんだけ見事に呪文にかかるのも、リーダーぐらいのもんだろうけど……」
道理で、ヤマグチもタイチも落ち着いているわけである。
焦って損した。
洞窟の石壁相手にやり場の無い緊迫感をぶつける二人を他所に、熟睡している魔法商人は、一向に目覚める様子が無い。
なるほど、確かに寝ている間なら完全に無防備だ、と、ナガセに野宿の危険性を再認識させた第三視点である。
「あ、覚醒の呪文あるよ。使う?」
「要らねぇよ。放っときゃ起きるし。何なら、手っ取り早く殴るか……」
がばり、と突然シゲルが直角に起き上がった。
「……トロルに襲われる夢見たわ」
「ナイスシンパシー。ってか、よくその短時間で」
「おはよーございます……」
一気にローテンションとなったナガセの挨拶に、寝汗を拭いつつ応えるシゲル。
呪文による強制的な誘眠の割に、目覚めは快調らしい。
表情も昼寝後のようにすっきりしている。
「ん……もしかしてラリホーかかってたんか? やっぱり? いやぁ、ありがたいわ。最近寝不足気味でなぁ。何か眠いなー思てたら、こう、コテンと……」
「それ一人旅だったら確実にあの世行きだよ、リーダー」
「ってゆかアンタはむしろそのまま永遠に眠れ……!」
白い目を向けるタイチと、ハリセンを鬼棍棒のごとく構えるマツオカの二連つっこみが、爽やかな笑みを浮かべるシゲルの寝汗を、早々に冷や汗に変えたようだ。
ハリセン、そのうち鉄製になるんではないか。
シゲルが負けじと、そんなことを言い返そうとしたが、吹っ飛んできた聖なるナイフの柄が直撃したため、以降押し黙った。
(とは言え、実際、鉄製のハリセンは確かに武器として使われているのだが。)
「先刻の魔物の群れは、この通路から移動してきたのか」
ヤマグチが通路の端で立ち止まっている。
T字路の左、細い抜け道があったのだ。
緩やかに歪曲しながら伸びる通路に気を取られて、ぱっと見ただけでは存在に気付かなかった。
きっと大昔においては、勝手口のような扱いだったに違いない。
「ああ……ちょうど、僕らがこれから行こう思てるルートや」
「ええっ? まさか、またモンスターわんさか居るんじゃないの?」
「まぁ、今出てきたから、しばらく出ないでしょ」
「そんなもんなの?」
楽観視しすぎな気もするが、これでマツオカの心身もだいぶ軽くなったようだ。
洞窟の入ってからの連戦続きで、おまけに不気味な魔物に出くわしたのであっては、さすがに精神的に疲労が溜まっていたのだろう。
もうあと半刻ほど、とシゲルが長めの目算を付けた。
ナガセは終着点が近いことを素直に喜ぶのだろう、と思っていたのだが、意に反して、難しい顔のまま座り込んでいる。
「……ナガセ? 何ぼーっとしてんだ」
「え? あ、ああ……うん」
ナガセは、はたと今しがた気付いたように、ヤマグチにぼんやりと生返事する。
心ここにあらず、と言った風だ。
「ああ。ナガセ、暗いとこダメだもんな」
「うんと、それもそうなんだけど。うーん、そうじゃなくてさぁ……」
「ほら、さっさと行くぞ。もうレミーラ切らしたくないだろ?」
タイチに促されたナガセは、仕方なく重い足を引きずった。
あれは、黒の世界だった。
見覚えがある、一つの世界の姿だった。
暗闇への恐怖、と単純には括れない何かの“思い出”だ。
何処かで見たはずなのに、思い出せない。
これは、何時の記憶なのだろうか。
不意に、ナガセは戦慄した。
こんな時にこんな所で、恐ろしいことを考えてしまった、自分の危うさに気がついた。
もしも一人欠けたら―――オレたちはどうなるのだろう。
そんなことはありえない、と、言い切れる自信は、今のナガセにはなかった。
バギ:風の下級呪文。真空の刃で敵グループを攻撃する。
ラリホー:眠りの呪文。対象を魔法で眠らせる。
ラリホー:眠りの呪文。対象を魔法で眠らせる。