OPENING

 ナガセは、森を歩いていた。
 点々と続く木漏れ日が、歩みを引っ張っている。
Level 00+a. 天の森の1人(1)
 その日はたいして暑くもなく、かと言って寒くもなく、雨こそ降っていなかったが、決して快晴というわけでもなかった。
 季節感の無い夕焼けが、西向きの窓に沈んでゆく。

「……城より参りました! 使いの者です!」

 突然、忙しく叩かれる玄関の戸に、母が料理皿を並べる手を止めた。
 道具屋のおばさんが、夕食のおすそわけにでも来てくれたのだろうが……せっかく今から晩ゴハンだったのに、と、不服ながら、ナガセはおとなしく椅子に座ったまま待つことにした。プラプラと足を揺らしてみる。

「オルテガ様の……が戻って……」
「……殿? 無事なのですか? ……は」

 母と訪問者の、途切れ途切れの会話の始終一部、父の名前が出たことに気付き、我に返る。
 ナガセの父、オルテガは、もう長いこと旅に出ていて家にいない。
 興味が無いわけではないが、理解するだけの単語は聞き取れない耳が恨めしい。

「そうですか」

 短く発した一言のあと、こちらをうかがう母と、唐突に目が合った。
 いつのまにやら気になり出して、二人を凝視していたらしい。
 心配そうな顔で見ている、と思われたにちがいない、慌ててナガセは目を逸らす。

「いらっしゃい、ナガセ」

 呼ばれたナガセは、今度こそ顔を上げた。
 こんな時間から出かけるのだろうか?
 手招きした母に小首をかしげて、椅子を飛び降りる。

 黄昏の煉瓦道。
 つないだ母の手は、いつもよりも冷たい。
 少し早足の母に引かれるように、ナガセは城にやってきた。城内では、兵士たちが慌しく走り回っている。
 出迎えの老兵士に付き添われ、母と二人、正面階段を上がっていく。
 親子連れであることが、場に似つかわしくないのだろう。
 周りの喧騒に目もくれず、通り過ぎた大広間からの視線が、やけに背中に痛いのが気になる。

「奥方」

 長い階段を上り終えたフロアからの声に、ようやくナガセは注意を逸らした。
 黒い僧服の男性が、すぐそこまで近づいている。

「神父様。ご無事で何よりです」
「いえ……」

 緩んだ母の手をすり抜けて、ナガセは広い広い“王の間”を、ぺたりぺたりと見渡してみる。

 要人と思しき一団が喧々と話し込んでいる一角、大の男たちが五人も十人も固まって円を成す一角。
 奥まで伸びた赤絨毯だけが、綺麗に人除けされている。
 小さなナガセは見るからに浮いているのだが、周りは気にも留めていない。

 そうやってしばらくぶらついていて、はたと自分と同じ高さの瞳に気づいた。
 同い年くらいの男の子が一人、やはりヒマを持てあましながら、石柱の陰に座り込んでいる。
 話しかけたほうが良いのだろうか、ナガセが口を開きかけた、その矢先。

「マサヒロ」

 どこかからの声に、男の子は立ち上がる。
 少し、こちらを気にしたのか、ためらうように駆け出した。
 ちょっとだけバツが悪くなって、それでもナガセは、男の子を呼んだ声の方を見やる。

「ナガセ、そこにいるの?」

 母がいた。
 呼ばれた男の子が向かった先は、母の隣にたたずむ、神父の元だった。彼の足に隠れるようにしがみついて、気配を殺す小動物のようにナガセの様子を窺っている。
 偶然にも、母の元へと走り寄る。
 小さな男の子がしがみつく神父は、余計に長身に感じられる。

「ナガセ、か。そうか、大きくなったな」

 澄んだ目を細めて、神父はようやく、かすかに微笑む。
 道理で見覚えがあるのは、きっと、もっと小さい頃に顔を合わせていたからだろう。

「前に会ったときは、まだ……こんなだった」

 掲げられた手の平は、ナガセの肩下20cm。悪い気はしない。
 けれど、どこか寂しげなその顔に、ナガセは頬が強張るのを抑えられない。
 母が短く相槌打って笑ったのが、幸いだった。

「育ち盛りですから。五年ほど会っていなければ当然でしょう」
「そうです。五年も、ですよ。五年かかって……オルテガ殿でも、無理、だったのか」

 五年も、と再三付け足して、神父がうつむく。ナガセのすぐ横の床を、じっと見据える。
 何だか居づらくなって、無意識に母の衣服の袖口を、きつくつかんでいた。

「いいえ、まだ、この子がおります」

 服の裾を握りしめる指をほどくように、母がゆっくりと屈み込む。いつになく優しい目。
 柔らかな髪越しに触れた手だけが、相変わらず冷たい。

「夫の意志は、この子が継いで見せますわ」

 おかあさん、それは。
 と、言おうとして、せめて目を逸らそうとして、全て阻むように抱きしめられる。

 父は何かに挑んで、でも無理だったのだと、漠然と感じた。
 周りが口を揃えて話す、豪傑な勇者である父が。

 そう思ったところで、ナガセはふと、父親を思い出す。
 記憶にあるのは後姿だけで、顔なんてろくに覚えていない。
 そういえば今も、どこをほっつき歩いているのか、何をやらかしているのかも解らない、旅に出たままの父。
 親と言うには、あまりにも他人行儀。
 それなのに、ナガセがこれからも超えられない壁。

 ――あの父が無し得なかったことを、自分がやり遂げるとでも?

 かすかに、笑う。
 今だからこそ出来るようになった自嘲した笑みは、母親の肩に隠される。

 ナガセは未だ、彼に追いつけない。
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