見事な夕日の朱が、シドニー通りの赤レンガをより美しく染め上げる。
時刻は、白の十一刻半ごろ。
タイチは、ちょうど訪れた数人目の常連客に頭を下げているところだった。
四軒向かい隣の武器屋のご主人である。
ルイーダの酒場は、いつもの開店時間を一刻ほど過ぎたところで、急遽の店じまいにかかっていた。
通常の閉店ではない。
ただ、理由を丁寧に説明するためには、少々時間が足りなさすぎた。
簡単に「店を空ける」との旨を伝えるに止めて、それでも、せっかく来て下さった常連客に、用意しておいたボトルワインを手土産に渡す。
客は一様に寂しげな顔をする。
ほとんど娯楽施設のないアリアハンにあって、ルイーダの酒場の占める重要度は、案外と大きかったのだ。
手土産用のボトルワインが足りなくなるくらいの、嬉しい誤算。
武器屋のご主人が通りを引き返していく後ろ姿に、もう一度頭を下げる。
いつの間にか、アリアハンという辺境の都市の中に馴染んで、生活している自分がいる。
――例えば、“こういうもの”を、“故郷”と呼ぶとするならば。
タイチにとって、それは多くの安堵感と一緒に、少しの焦燥感を連れて来る言葉である。
そろそろ、本格的に夜に変わり始める時刻に入る。
早めに片付けておかねばならないだろうと、急ぎ、立て看板に手をかけた指先が、すいと暗まった。
夕闇に伸びた街灯の明かりが、誰かの影を落としたからだ。
「開いとるか?」
緩やかな大陸東のイントネーションに、タイチが薄い笑みで振り向く。
「開けるよ」
当然のように答えてから、掛け表札をCLOSEに返す。
ルイーダの酒場最終日の夜は、もうしばらく長引きそうだ。
がらりと空いた停泊場。
小さな漁船が数隻、波間に揺れている。
夕刻過ぎたキャンベラ港に、出航前の慌しさなど微塵も感じられない。
漂うのは、出航後の閑散と静まり返った気配だけである。
船員らしき男が二、三人、港の掃除をしている以外は人気もなかった。
遠く、わずかに見えるのは、今や水平線と同化しつつある一つの帆影だ。
ナガセは呆然と、消えていく様を見守るしかない。
「嘘ぉ」
思わず、一人つぶやいていた。
夕焼けに舞うウミネコさえ、相槌をくれなかった。
「……行っちゃった」
のち、一呼吸遅れて、ウミネコが相槌を打ってくる。
みゃーと返る、二拍の妙な間の開き方に、余計に寂しさが込み上げる。
考えてみれば、虫の良すぎる話ではないか。
待てと頼んだところで、待っていてくれるはずがなかったのだ。
マツオカは、マツオカなりに考えて考えて、ついに決心した旅立ちだったのだから。
「マボー」
特に深い意味もなく、海に向かって呼んでみる。
弱々しい声に、期待はしていなかった。無論、届くはずも、聞こえるはずもない。
夕陽が沈むのと同じ速さで、水平線に船が飲まれていく。
もうケシ粒ほどの大きさになってしまっている。
「呼んだか」
マツオカが、真横に立っている。
船。
水平線の向こうに消えた定期船。
閑散としたキャンベラ港。
港。
で、隣の、マツオカ。
「は? え!? ええ!? おわああ!!」
ナガセは、せまりくるマーマンを見た。
否、今史代最大級のクラーケンを見た。
そんな比喩があながち大げさでないような形相で、大声を上げて、真っ逆さまに倒れこんだのだった。
挙句、海面に転げ落ちそうになる。
「だわー!! 落ちる! 落ちる! ってか何でここにいるの、マボ!」
「お前が待てって言ったんでしょうが!」
「偽者!? 本物ッスか!? マツオカくんですよねぇ!?」
「ちょっとは落ち着け、って! オレを巻き添えにすんな!」
マツオカの長い僧服の裾を命綱代わりに掴んだおかげで、ナガセはからくも塩水まみれになりそうな危機的状況を逃れた。が、この状況を頭が受け入れるのには、そこから、さらにしばらくがあった。
改めて見るとマツオカが立っていたのは、ナガセのほんの真横で、何故今の今まで気づけなかったか不思議なくらいの至近距離だったのだ。
遠景を見すぎていたせいか、焦点が合うまでには、また少し時間がかかった。
僧服の縺れを面倒そうに直す、その姿。どうやら、確かに、本物のマツオカなのである。
「へ!? だって、定期船、今……」
「もう出航したよ!」
ナガセが、真っ先に聞いておきたかった核心を微妙にずれている回答であった。
それを聞き返そうとするのを嫌がったのだろう、マツオカは早口で放つ。
「乗り過ごした! 別に他意はねぇからな!」
何故だか怒り口調で言い捨てて、キャンベラ港を先に立って出て行ってしまった。
「……乗り過ごした?」
ナガセが慌てて追いかける。
だが、その足取りは港に来た時とは違い、当然のようにゆるやかで軽い。
旅支度を完璧に整えているマツオカが、定期船に乗らずに港を出て行くのだ。
今更になって込み上げてくる笑いは、面白さ四分の一、嬉しさ四分の三。
すぐに追いついた後ろ姿に、話しかける。
「マボ」
「あ?」
「オレ、冒険者になる」
シドニー通りは、今ようやく夜晴れの下にある。
「アリアハン出る」
「おう」
「ヤマグチくんにね、旅に一緒について行くこと、許してもらった。絶対、リーダーもタイチくんも来るよ。ってゆーか、来てってお願いする、絶対」
「ん」
マツオカが迷いなく歩みを進めることと、短い相槌を打つことに、最大限の了解の意を含めている。
分かっているから、ナガセはマツオカを決して追い抜かない。
「だから一緒に行こう、マボ」
二人の足が自然と向かうのは、本日四名さま宴会予定&貸切の予約が何故か全自動で入っている、ルイーダの酒場である。
「……ナガセ、勝ったんかな」
それを聞きたかったわけではあるまい。
シゲルの真意を悟ってか読みかねてか、タイチはグラスを差し出す。
限りなく薄い安物のリキュールだ。そろそろ酒を控える年齢でしょ、と皮肉を口挟むつもりだったのだ。
「僕は負けたのになぁ……」
聞いている側が一瞬、戸惑うような告白である。
早々に酔ったわけではないらしい、シゲルはグラスに手を付けてさえいない。
ぼんやりと、弱いアルコールの液面を眺めている。
「負けて、面倒事が嫌で、家出て冒険者の真似事して、道具屋始めたりしたけど」
タイチは黙って、話を聞き続ける。
「逃げてきたんかなぁ。僕」
「さぁ」
気の無い返事で家路を急かされても、シゲルはグラスを空けられない。
「ってゆか帰らなくて良いの? こんなとこで飲んだくれて。店、放ったらかしでしょ」
「いっそ帰る、かぁ」
「うん……?」
わずかにニュアンスの違う言葉に、タイチが珍しく、数秒ほど目を瞬いた。
それが、オースト雑貨店に帰る、のではなく、“彼が自ら捨ててきた(あるいは、捨てざるを得なかった)場所”に帰ることだと、沈黙の間に理解する。
アリアハンを好いて留まるタイチと違い、シゲルの背景にあるものは、より複雑だ。
冷たい氷水に指を浸けるくらいの、わずかな勇気を出しさえすれば、彼は、アリアハンをいつでも離れることが出来た。
「ねぇ。俺ねー」
それでも、今、シゲルがここに居るのは、ただの通りすがりとしてではないはずだ。
頼りない根拠を盾に信じて、タイチは洗い場に向き直る。そっぽ向いたままで水道の蛇口をひねる。
流れる水音の向こうに、何かを言ったのか、誤魔化されると期待しての行動だった。
「シゲルくんには感謝してるよ」
ころんと氷がひとつ、グラスを転がった。
シゲルが顔を上げた気配がある。
タイチは洗い場に向かったまま、一向に進まない洗い物を手で泳がせている。
「あの時――、冒険者勧めてくれて感謝してるの。おかげで、アリアハンで暮らせてるわけだし」
「うん」
「リーダーの人生は、リーダーのもんだと思うよ。俺は」
「……うん」
「もうしばらくは、売れない道具屋やってても良いんじゃない?」
「うん……もうしばらく、か」
かこんと、氷がひとつ解け落ちる音で、グラスはすっかり空けられる。
からんと、ちょうど共鳴するタイミングで、酒場のドアが呼び鈴を揺らした必然。
二人は顔を見合って戸口の方へと目を向ける。
「おーい、来たぞー」
「ヤマグチ?」
普段着のヤマグチであった。
「あ、何だ。リーダーも来てた?」
麻紐で括った紙袋をテーブルに載せ置いてから、そのままカウンターに入る。
アリアハンの四人(店長除く)に限り、セルフサービスも可な酒場なのである。
「そろそろ来るころかと思うとってな」
「考えることは一緒ってことね」
ヤマグチが、これから楽しむ一杯目のために、棚に並ぶボトルを眺めている。
最終候補に残った二つのうち、迷った末に価値の高い方を選んだようだ。
いつもなら確実に店長・タイチが怒鳴る場面だが、今日限りは見ない振りを決め込んでいらしく、そそくさとカウンターを離れ、ヤマグチ持参の紙袋を開いている。
土産に持ってきたであろう紙袋の中身は、ボトルワインだった。
「あ、それ王様から」
「ええ!?」
「餞別代わりだってよ。何つーか、あの人らしいと言うか……」
驚いてワインラベルを凝視するタイチの眼が、すすとシゲルとヤマグチに視点を移した。
その手に、いつのまにやら栓抜きが握られている。
おそらく、三人とも似たようなことを頭の上に浮かべている図である。
「開けちゃおうか」
「開けるか」
「待て待て。ナガセとマツオカが戻ってから、やな」
ともすると開栓しかねない二人の様子に、シゲルは苦笑して宥めた。
「何に乾杯?」
タイチが、栓抜きを構えたまま、五人分のワイングラスを用意している。
シゲルは空のグラスの中身、氷を楽器のように鳴らしながら答えた。
「ぼくらの、美しい旅立ちの夜に……」
「キモーイ」
「似合わなーい」
「……冗談やん」
西大陸の片言口調でタイチが切り捨てると、
有り合わせで酒の肴を作り始めたヤマグチも、また同時に落とした。
この絶妙の掛け合い。シゲルの空笑いは毎度の付録である。
どれも、タイチには全て、当たり前のように思える事象。
多分、五人は通りすがりではないのだから、ほんの少しなら相手の考えも読めてしまう。
「あーでも、俺、何に乾杯するか、何となく見当付くかも」
酒を目前にして、あれこれ議論を交わせるような、気の長い人間たちが集まるのではないのだ。
結局、「はいッ」と手を挙げるナガセの意見が採用されることになるだろう、と予想して。
当たったらツケ払いの催促、と、タイチが策士の余裕でもって微笑んだ。
「“アリアハンの5人に”」
「な、“運命”やと思うか?」
「は?」
シドニー通りに並ぶ街灯の真上を、銀の月が昇っていく。
繰り返し繰り返し、見続けたアリアハンの夜。
時折、突飛な質問をするシゲルに、面食らうのはいつもタイチである。
「僕が、あの神殿でオルテガさんと会うて。それからタイチに会うて、ヤマグチに会うて、マツオカに会うて……」
指折り数えて、最後の小指を残したまま、シゲルが顔を上げる。
答えはいらない、と言わんばかりの、その気分上々の笑顔と来たら。
「ナガセと、このアリアハンで出会ったのは、運命やと思うか?」
運命、なんて普段軽々しく口にしないシゲルの言葉である。完全に酔っている。
それを諫めるどころか、笑い流してしまうタイチも相当酔っているのだから、どうしようもない。
酔いを早めたのは、強いアルコールのせいだけではないのだろう。
「もう分かってんでしょ?」
「はは、まぁなー」
そうか、きっと、春の宵闇のせいなのだ。
責任転嫁しておいて、タイチはまた無性に楽しくなってくる。
「ここで寝ないでよね」
「寝んよ」
そう笑って、シゲルはひよひよとシドニー通りを歩いていく。
猫背の背中に、月明かりが落ちては、また夜に薄めく。
実に楽しげなリズム。後ろ手を振った。
「明日は、早よなりそうやから」
振り返らずに挙げた挨拶の手は、「さようなら」ではなくて、「またあした」であると、タイチは願っている。
時刻は、白の十一刻半ごろ。
タイチは、ちょうど訪れた数人目の常連客に頭を下げているところだった。
四軒向かい隣の武器屋のご主人である。
ルイーダの酒場は、いつもの開店時間を一刻ほど過ぎたところで、急遽の店じまいにかかっていた。
通常の閉店ではない。
ただ、理由を丁寧に説明するためには、少々時間が足りなさすぎた。
簡単に「店を空ける」との旨を伝えるに止めて、それでも、せっかく来て下さった常連客に、用意しておいたボトルワインを手土産に渡す。
客は一様に寂しげな顔をする。
ほとんど娯楽施設のないアリアハンにあって、ルイーダの酒場の占める重要度は、案外と大きかったのだ。
手土産用のボトルワインが足りなくなるくらいの、嬉しい誤算。
武器屋のご主人が通りを引き返していく後ろ姿に、もう一度頭を下げる。
いつの間にか、アリアハンという辺境の都市の中に馴染んで、生活している自分がいる。
――例えば、“こういうもの”を、“故郷”と呼ぶとするならば。
タイチにとって、それは多くの安堵感と一緒に、少しの焦燥感を連れて来る言葉である。
そろそろ、本格的に夜に変わり始める時刻に入る。
早めに片付けておかねばならないだろうと、急ぎ、立て看板に手をかけた指先が、すいと暗まった。
夕闇に伸びた街灯の明かりが、誰かの影を落としたからだ。
「開いとるか?」
緩やかな大陸東のイントネーションに、タイチが薄い笑みで振り向く。
「開けるよ」
当然のように答えてから、掛け表札をCLOSEに返す。
ルイーダの酒場最終日の夜は、もうしばらく長引きそうだ。
Level 04+b. キャンベラ港の1人、のち2人、他3人
定期船は無かった。がらりと空いた停泊場。
小さな漁船が数隻、波間に揺れている。
夕刻過ぎたキャンベラ港に、出航前の慌しさなど微塵も感じられない。
漂うのは、出航後の閑散と静まり返った気配だけである。
船員らしき男が二、三人、港の掃除をしている以外は人気もなかった。
遠く、わずかに見えるのは、今や水平線と同化しつつある一つの帆影だ。
ナガセは呆然と、消えていく様を見守るしかない。
「嘘ぉ」
思わず、一人つぶやいていた。
夕焼けに舞うウミネコさえ、相槌をくれなかった。
「……行っちゃった」
のち、一呼吸遅れて、ウミネコが相槌を打ってくる。
みゃーと返る、二拍の妙な間の開き方に、余計に寂しさが込み上げる。
考えてみれば、虫の良すぎる話ではないか。
待てと頼んだところで、待っていてくれるはずがなかったのだ。
マツオカは、マツオカなりに考えて考えて、ついに決心した旅立ちだったのだから。
「マボー」
特に深い意味もなく、海に向かって呼んでみる。
弱々しい声に、期待はしていなかった。無論、届くはずも、聞こえるはずもない。
夕陽が沈むのと同じ速さで、水平線に船が飲まれていく。
もうケシ粒ほどの大きさになってしまっている。
「呼んだか」
マツオカが、真横に立っている。
船。
水平線の向こうに消えた定期船。
閑散としたキャンベラ港。
港。
で、隣の、マツオカ。
「は? え!? ええ!? おわああ!!」
ナガセは、せまりくるマーマンを見た。
否、今史代最大級のクラーケンを見た。
そんな比喩があながち大げさでないような形相で、大声を上げて、真っ逆さまに倒れこんだのだった。
挙句、海面に転げ落ちそうになる。
「だわー!! 落ちる! 落ちる! ってか何でここにいるの、マボ!」
「お前が待てって言ったんでしょうが!」
「偽者!? 本物ッスか!? マツオカくんですよねぇ!?」
「ちょっとは落ち着け、って! オレを巻き添えにすんな!」
マツオカの長い僧服の裾を命綱代わりに掴んだおかげで、ナガセはからくも塩水まみれになりそうな危機的状況を逃れた。が、この状況を頭が受け入れるのには、そこから、さらにしばらくがあった。
改めて見るとマツオカが立っていたのは、ナガセのほんの真横で、何故今の今まで気づけなかったか不思議なくらいの至近距離だったのだ。
遠景を見すぎていたせいか、焦点が合うまでには、また少し時間がかかった。
僧服の縺れを面倒そうに直す、その姿。どうやら、確かに、本物のマツオカなのである。
「へ!? だって、定期船、今……」
「もう出航したよ!」
ナガセが、真っ先に聞いておきたかった核心を微妙にずれている回答であった。
それを聞き返そうとするのを嫌がったのだろう、マツオカは早口で放つ。
「乗り過ごした! 別に他意はねぇからな!」
何故だか怒り口調で言い捨てて、キャンベラ港を先に立って出て行ってしまった。
「……乗り過ごした?」
ナガセが慌てて追いかける。
だが、その足取りは港に来た時とは違い、当然のようにゆるやかで軽い。
旅支度を完璧に整えているマツオカが、定期船に乗らずに港を出て行くのだ。
今更になって込み上げてくる笑いは、面白さ四分の一、嬉しさ四分の三。
すぐに追いついた後ろ姿に、話しかける。
「マボ」
「あ?」
「オレ、冒険者になる」
シドニー通りは、今ようやく夜晴れの下にある。
「アリアハン出る」
「おう」
「ヤマグチくんにね、旅に一緒について行くこと、許してもらった。絶対、リーダーもタイチくんも来るよ。ってゆーか、来てってお願いする、絶対」
「ん」
マツオカが迷いなく歩みを進めることと、短い相槌を打つことに、最大限の了解の意を含めている。
分かっているから、ナガセはマツオカを決して追い抜かない。
「だから一緒に行こう、マボ」
二人の足が自然と向かうのは、本日四名さま宴会予定&貸切の予約が何故か全自動で入っている、ルイーダの酒場である。
「……ナガセ、勝ったんかな」
それを聞きたかったわけではあるまい。
シゲルの真意を悟ってか読みかねてか、タイチはグラスを差し出す。
限りなく薄い安物のリキュールだ。そろそろ酒を控える年齢でしょ、と皮肉を口挟むつもりだったのだ。
「僕は負けたのになぁ……」
聞いている側が一瞬、戸惑うような告白である。
早々に酔ったわけではないらしい、シゲルはグラスに手を付けてさえいない。
ぼんやりと、弱いアルコールの液面を眺めている。
「負けて、面倒事が嫌で、家出て冒険者の真似事して、道具屋始めたりしたけど」
タイチは黙って、話を聞き続ける。
「逃げてきたんかなぁ。僕」
「さぁ」
気の無い返事で家路を急かされても、シゲルはグラスを空けられない。
「ってゆか帰らなくて良いの? こんなとこで飲んだくれて。店、放ったらかしでしょ」
「いっそ帰る、かぁ」
「うん……?」
わずかにニュアンスの違う言葉に、タイチが珍しく、数秒ほど目を瞬いた。
それが、オースト雑貨店に帰る、のではなく、“彼が自ら捨ててきた(あるいは、捨てざるを得なかった)場所”に帰ることだと、沈黙の間に理解する。
アリアハンを好いて留まるタイチと違い、シゲルの背景にあるものは、より複雑だ。
冷たい氷水に指を浸けるくらいの、わずかな勇気を出しさえすれば、彼は、アリアハンをいつでも離れることが出来た。
「ねぇ。俺ねー」
それでも、今、シゲルがここに居るのは、ただの通りすがりとしてではないはずだ。
頼りない根拠を盾に信じて、タイチは洗い場に向き直る。そっぽ向いたままで水道の蛇口をひねる。
流れる水音の向こうに、何かを言ったのか、誤魔化されると期待しての行動だった。
「シゲルくんには感謝してるよ」
ころんと氷がひとつ、グラスを転がった。
シゲルが顔を上げた気配がある。
タイチは洗い場に向かったまま、一向に進まない洗い物を手で泳がせている。
「あの時――、冒険者勧めてくれて感謝してるの。おかげで、アリアハンで暮らせてるわけだし」
「うん」
「リーダーの人生は、リーダーのもんだと思うよ。俺は」
「……うん」
「もうしばらくは、売れない道具屋やってても良いんじゃない?」
「うん……もうしばらく、か」
かこんと、氷がひとつ解け落ちる音で、グラスはすっかり空けられる。
からんと、ちょうど共鳴するタイミングで、酒場のドアが呼び鈴を揺らした必然。
二人は顔を見合って戸口の方へと目を向ける。
「おーい、来たぞー」
「ヤマグチ?」
普段着のヤマグチであった。
「あ、何だ。リーダーも来てた?」
麻紐で括った紙袋をテーブルに載せ置いてから、そのままカウンターに入る。
アリアハンの四人(店長除く)に限り、セルフサービスも可な酒場なのである。
「そろそろ来るころかと思うとってな」
「考えることは一緒ってことね」
ヤマグチが、これから楽しむ一杯目のために、棚に並ぶボトルを眺めている。
最終候補に残った二つのうち、迷った末に価値の高い方を選んだようだ。
いつもなら確実に店長・タイチが怒鳴る場面だが、今日限りは見ない振りを決め込んでいらしく、そそくさとカウンターを離れ、ヤマグチ持参の紙袋を開いている。
土産に持ってきたであろう紙袋の中身は、ボトルワインだった。
「あ、それ王様から」
「ええ!?」
「餞別代わりだってよ。何つーか、あの人らしいと言うか……」
驚いてワインラベルを凝視するタイチの眼が、すすとシゲルとヤマグチに視点を移した。
その手に、いつのまにやら栓抜きが握られている。
おそらく、三人とも似たようなことを頭の上に浮かべている図である。
「開けちゃおうか」
「開けるか」
「待て待て。ナガセとマツオカが戻ってから、やな」
ともすると開栓しかねない二人の様子に、シゲルは苦笑して宥めた。
「何に乾杯?」
タイチが、栓抜きを構えたまま、五人分のワイングラスを用意している。
シゲルは空のグラスの中身、氷を楽器のように鳴らしながら答えた。
「ぼくらの、美しい旅立ちの夜に……」
「キモーイ」
「似合わなーい」
「……冗談やん」
西大陸の片言口調でタイチが切り捨てると、
有り合わせで酒の肴を作り始めたヤマグチも、また同時に落とした。
この絶妙の掛け合い。シゲルの空笑いは毎度の付録である。
どれも、タイチには全て、当たり前のように思える事象。
多分、五人は通りすがりではないのだから、ほんの少しなら相手の考えも読めてしまう。
「あーでも、俺、何に乾杯するか、何となく見当付くかも」
酒を目前にして、あれこれ議論を交わせるような、気の長い人間たちが集まるのではないのだ。
結局、「はいッ」と手を挙げるナガセの意見が採用されることになるだろう、と予想して。
当たったらツケ払いの催促、と、タイチが策士の余裕でもって微笑んだ。
「“アリアハンの5人に”」
「な、“運命”やと思うか?」
「は?」
シドニー通りに並ぶ街灯の真上を、銀の月が昇っていく。
繰り返し繰り返し、見続けたアリアハンの夜。
時折、突飛な質問をするシゲルに、面食らうのはいつもタイチである。
「僕が、あの神殿でオルテガさんと会うて。それからタイチに会うて、ヤマグチに会うて、マツオカに会うて……」
指折り数えて、最後の小指を残したまま、シゲルが顔を上げる。
答えはいらない、と言わんばかりの、その気分上々の笑顔と来たら。
「ナガセと、このアリアハンで出会ったのは、運命やと思うか?」
運命、なんて普段軽々しく口にしないシゲルの言葉である。完全に酔っている。
それを諫めるどころか、笑い流してしまうタイチも相当酔っているのだから、どうしようもない。
酔いを早めたのは、強いアルコールのせいだけではないのだろう。
「もう分かってんでしょ?」
「はは、まぁなー」
そうか、きっと、春の宵闇のせいなのだ。
責任転嫁しておいて、タイチはまた無性に楽しくなってくる。
「ここで寝ないでよね」
「寝んよ」
そう笑って、シゲルはひよひよとシドニー通りを歩いていく。
猫背の背中に、月明かりが落ちては、また夜に薄めく。
実に楽しげなリズム。後ろ手を振った。
「明日は、早よなりそうやから」
振り返らずに挙げた挨拶の手は、「さようなら」ではなくて、「またあした」であると、タイチは願っている。