外に出る。
ナガセの足は、自然と速まる。
街の外へ出るのは初めてではない。
外、なんて言っても、所詮は小国アリアハン。
見えるのはもっぱら黄緑色の原っぱと、平坦に続く散策道。(ときたま道沿いに出現するスライムやらオオガラスやらの魔物を除けば)別段、めぼしいものも無い。
何せ、十数年以上知り尽くした大陸未満なのだ。
けれどもナガセは、腹の底から沸いてくる高揚感を抑えられなかった。
不謹慎だとは思うが、にやけてしまう。
これが、まるで新しい冒険の第一歩の、その準備体操のようで。
何のための衛兵なんだか、とは思ったが、今は今だ。
岬の洞窟を目指し、アリア岬を廻り込む舗道を足早に駆け抜ける。
「……うーむ。さすがはオルテガさんの息子」
「ちょっとぉ……オレはオレでしょ。何で父さんが出てくんの」
「ま、そー言うなって。利用するもんは利用しとかねーと損じゃねぇか」
おかげで実際、助かっていることもある。
練習用に借りたいと言ったら、武器屋のおじさんは銅の剣を。友達(この場合、マツオカ)がしびれスライムに刺されて怪我をしたと言ったら、道具屋のおばさんは薬草と毒消し草を持たせてくれた。失礼、ツケ払いで買った。
ナガセの顔の広さの為せる技である。
「ナガセ、家には何も言ってきてねーのか?」
岬の洞窟まで半日、ナジミの搭で半日かかると目算しても、日が落ちるまでには戻って来れないだろう。
ナガセには帰りを待つ家族がいる。
「言ったよ。今日はマボんとこの教会に泊まる、って」
「なに。珍しく上手い言い訳」
「考えたでしょーオレ! あ、でも……」
マボは?
言いかけたナガセは、その先を口に出来なかった。
何年もの付き合いで、当然のように知っていることを、あえて聞こうとまでした自分を恥じてしまう。
マツオカは、つとめて何気なく会話を続ける。
「あ、オレ? 大丈夫よ。何たって独り身だし?」
冗談めいて笑うマツオカには、家族がいなかった。それでも、言葉の先に、家族がいないことを思いつめるような気配は無い。
「教会の戸締り、アイバに頼んできたから」
「……そっかあ」
ナガセがほっとした笑みを浮かべる。
家族と呼べる人がいるという、幸せ。マツオカを見ていると客観で、よく分かる。
教会には、後輩のくせに妙に頼りになる弟分の神父と、二人が筆頭して面倒見る、身寄りの無い子供たちが待っている。
ストラ川にかかる大橋を越えるころには、さすがに二人とも疲れたのだろう。
それまで小走りだった歩みを遅くすると、風に霞んでいた景色も、鮮やかに見えるようになっていく。
やがて、街道の石畳は姿を消して、代わりに背丈の低い草群が目立ち始めた。
ぽつぽつと並ぶ広葉樹の間隔が、徐々に狭まってきている。
まもなく、クレストの森に差し掛かる。
魔物除けの聖水を取り出しにかかったマツオカが、周囲の異変を敏く察した。
「止まれ……止まれ、ナガセ」
「……!」
慌しく足を止められたナガセの視界を、ちょうど縦に切るように、黒い木の葉のような物体が舞い落ちてくる。
ゆっくりと、出元を探しに目を上げると、木々の合間から覗く、無数の魔物の瞳。
「オオガラスだ」
どうすんの、と真っ先に聞こうとした言葉さえも制される。
振り向くために空気の波が揺れる度に、魔物たちがざわつくのだ。
人を襲い、他の魔物の死肉ですら漁る、一般的なカラスの二倍近くはあろう鳥属のモンスター。群れで来られると、厄介極まりない。
ナガセは、ヤマグチに教わった『モンスター対処法・その2(オオガラスの場合)』を慎重に思い浮かべる。確か。
「動かなきゃ何も無い……と思う。たぶん」
「……いつまで」
「……いつまでも?」
「おい」
小声でつっこんでみたものの、如何せん状況が悪すぎて、漫才の先が続かない。
カラスたちのざわつきが、ひとまず収まるのを待ってから、マツオカがこそこそと尋ねる。
「お前、リーダーとタイチくんに魔法習ってんだろ? 攻撃魔法」
「うん、使っても良いの?」
そこをどうして聞いてくるのか。
マツオカ、しばし考える。
「……やっぱいい」
「ええー? なんでよ」
「だってお前、今使えるの火の呪文だけっしょ? 燃え移りそうだもん」
というのは表向きの理由であって(あながち間違いではないが)、本当はナガセの魔法の不安定さを危惧して、とはマツオカは言わなかった。
不満げに口を尖らせるナガセを尻目に、手にした聖水のフタを開ける。
退魔の力を持つ聖水も、魔物に見つかってしまってからでは、効力が極端に弱まるが……。
「気休めだよなぁ」
そうつぶやきながら、地面に落書きでもするかのように、聖水を零していく。
期待はしていないが、無駄な争いは避けたいところ。聖職者であるマツオカの願いでもある。
「じゃあ、剣で追い払う?」
「あの数を一人でか?」
「マツオカくんも手伝ってよ」
言われてマツオカは、ぱ、と両手を広げて見せた。
オレ、武器、無し。
ジェスチャーで伝わるマツオカの意思に、ナガセは軽く目眩を覚えるかと思った。
「……どうすんの?」
「どうすんだ?」
互いに問いかけ合って、以降、無言で唸り込む。
オオガラスは、そんな頭上で、相変わらず目を光らせている。
さて、二人は、さっぱり気が付いていなかった。人の気配がすぐ真後ろまで近づいていたことに。
砂利を踏みしめ、二人の背後に近づく足音が、ぴたりと止まる。
すらり抜き放たれた剣が、鞘を滑る照り返し。森の木々に映った光の帯。
不規則な光のちらつきに気付き、マツオカがそちらに向かおうとした、が。
「頭下げろ」
凛とした声が、森に反響する。
ぎゃあぎゃあ、と無数の黒い羽が視界を埋め尽くす。
一瞬の後――羽ばたきの音は捌けるように遠ざかっていた。
頭を下げる、ヒマすら無かった。
かろうじて腕で覆った視界を開けてみると、足元にオオガラスのなれの果てが一体、二体。
あれだけ輝いていたオオガラスの邪視も、すっかり森から消え去っていた。
呆然と、顔を上げようとした矢先に、無造作に背中にかけられる声がある。
「よぉ、悪ガキども」
ナガセとマツオカは、二人して“何か悪いことをしでかした後の子供”のように、背筋をぴんと伸ばして直立不動のまま、首が90度回転、目線だけが合う。
そおっと、同時に後ろ目で見ると、林道のど真ん中に、仁王立ちで構える黄金熊、ならぬ、アリアハン騎士団長・ヤマグチであった。
その距離、わずかに1m。
「……何で、グっさんが」
「ここに」
「お前らのやろうとしてることなんざ、お見通しなんだよ」
鼻で笑った後のセリフは、さながら悪代官、否逆、正義のヒーロー。
……さて一体、どの辺りの行動が怪しかったのだろうか。
思い当たる節がありすぎて、二人は何も言い返せない。だが、ナガセは時に、はたと妙案を得る。
「あ、あのっ、違うんです。オレ、岬の洞窟に行こうと思って。ほら! 前、ヤマグチくんが言ってた」
うろたえた口調ながら、ナガセが必死に説明し出した。
確かに、多少なりとも信憑性がある。ヤマグチも視線を放る。
「どうしても、一人で行ってみたくて……でも、やっぱ一人は嫌だから、マツオカくんにも、ついてきてもらおうって」
ナガセの言葉の成り行きを、マツオカも平静を装って聞き入る。
そんな二人を交互に見比べた後、ヤマグチはぽつりと応えた。
「ふぅん、腕試し。で、ナジミの搭に行く気か?」
「え! 何でわかッ」
刹那、真横から飛んできた僧侶のエルボーが、ナガセの口元にクリーンヒット。
あまりの痛さに仰け反ったナガセが涙目で睨みつけると、マツオカもまた、こう、声には言い表せない怒りの目つきで対抗する。
そのどちらも、今のヤマグチには推測を裏付ける証拠にしかならなかったようだ。
「騎士団、あまく見んなよ」
いつになく低音で凄まれて、ついに二人は地べたに正座してしまった。
「……ゴメンナサイ」
「……スミマセン」
「……」
項垂れた頭の上の方で、空気が笑ったのに、先に気付いたのはナガセだった。
「……ぶはッ! あー、もうだめ、おかしすぎ! お前ら何で正座だよ!」
「ヤマグチ、くん」
「……兄ぃ?」
未だ恐々と様子を覗うような小熊二匹の姿に、ヤマグチが大笑いする。
「ヤマグチくん、オレらが搭に行くって……知ってたんスか」
「いや、知らなかったけど。先刻も言っただろ? “お前らの行動パターンなんかお見通し”だって」
と、そう言ったところでヤマグチは少し止まって、立ち上がらせた二人に切り出した。
「ホントはな。シゲルくん……うちのリーダーに頼まれた」
「リーダー、来たの!?」
「ああ、あのあとすぐにな」
時間的にも、間違い無く“すぐに”、おそらく、ナガセとマツオカが帰った後、シゲルは迷いも憂慮も無くヤマグチの元に直行したことになる。
二人がナジミの搭に向かっている、という情報を懐に携えて。
「あんのジジイ……話すなって言ったのに」
「話すな」ってのは、「話してくれ」って言うとるようなもんやでー。
カラカラと笑うシゲルの姿が目に浮かぶようだ。
「感謝しとけよ」
諭されたマツオカは、照れ臭そうにそっぽを向いて、一人先に立って歩き出した。
のんびりと後からそれを追い越していくヤマグチの後に、ナガセが並ぶ。
「じゃ、ヤマグチくん、タイチくんが犯人だって……」
「思ってるわけねーだろ。だから、俺がこうして捜査に乗り出してんじゃねーかよ」
森の分け入った野ざらしの小道を、ヤマグチは先頭に立って歩いていく。
幸いにも先ほどマツオカが放った聖水の効力が働いているらしく、辺りに魔物の気配は感じられない。
「タイチを呼んだのは、確かに犯人候補ってのもあったけど、むしろ逆」
「逆?」
「あいつは探索呪文を使えるからな」
探索、呪文。
ナガセには耳慣れない言葉である。
魔法の一種なのだろうが、そういう類のものはシゲルからも教わっていなかった。
「俺も、魔法のことは詳しくないから、よくわかんねぇけど……」
ナガセが一瞬、面白くない顔でもしたらしい、ヤマグチが申し訳なさそうに口を挟む。
「ナジミの搭あたりに、盗まれた宝物の反応があるらしいって。タイチの話でな」
「ねェ、その盗まれたもんって、一体なによ?」
「レッドオーブ」
即答され、マツオカは不覚にも動揺した。
ヤマグチはそれに気付いているのか、流暢に説明を続ける。
「この世界に、全部で六個ある宝玉のうちの、一個って言われてる」
「あ、オレ聞いたことある。六つ全部集めると、願いごとが一つだけ叶うんだっけ?」
ナガセが嬉しそうに話に加わった。伝説やら冒険譚を、熱心に聞き入る彼らしい。
「まあ、その噂が本当かどうかは解らねぇけど……凡人にはただの丸っこい石だな」
ヤマグチはそう言って、肩をすくめる。
「それにアリアハンのは本物だけど……偽物も多いんだ。換金できるとは思えねぇんだよ」
「金目当ての賊じゃ無いって、こと?」
「タイチがそうだった」
突拍子に、その名を出されるとは。虚を突かれた驚きのあまり、ナガセとマツオカが歩みを止める。
「ウワサの方だよ。六個集めるとー、ってヤツ」
「“願いごとが一つだけ叶う”?」
「さぁね……どうだか」
途端、急激に言葉数の無くなったヤマグチに、マツオカは思わずナガセの顔色を覗う。
何か、聞いてはいけないことだったのだろうか。(話してくれたのだから、それは無いだろうが。)
会話が途絶え、気まずい沈黙だけが残ろうとしていた、ちょうどそのとき。
森の木漏れ日が一気に照度を増した。木々が開ける。
「ここだ」
ヤマグチが足を止めた。
高い針葉樹の合間に、岩壁が盛り上がった丘のように、ぱかりと、大人二人が横並びで通れそうなほどの穴がひとつ口を開けている。
アリア岬の洞窟である。
「……はー、ここが岬の洞窟、かぁ。オレもここ来んの始めてよ」
「天井低いから気をつけろよ」
感慨深げに、マツオカは洞窟の入り口を行ったり来たりしてみる。
入り口は天然洞穴ならではの、岩と土の混じった壁。
昼過ぎの眩しい日差しすら、洞窟のほんの数m奥で途絶えてしまうだろう。
「……まっくら」
「そりゃ洞窟だからな」
素直な感想を漏らしたナガセに、はい、と差し出されたヤマグチの手が、何かを催促している。
訳がわからず、顔を眺め返すナガセがマツオカに助けを求めると、マツオカもまた首を傾げる。
その様子を見たヤマグチの方が、ますます不信げに目を細めた。
「だから……灯り。松明は?」
「……あ」
「へ? たいまつ……?」
微妙な雰囲気の中で、しばらく双方の道具袋を見やったナガセとマツオカは、ぱぱ、と両手を広げて見せた。降参、の意味でもあった。
ヤマグチは決して大袈裟ではない驚きようで、詰め寄る。
「何? 松明も持ってこなかったのか!?」
「だっ……灯りあると思ってたんだよ!」
「勘弁しろよ……そんなんで、どうやって洞窟抜ける気だったんだ」
呆れた口調で説教しながら、ヤマグチは雑木林の地面を見回す。
見繕ったのは、乾いて折れた手頃な木の枝。一つ拾うと、手のひらから軽く放る。
「ま、こーいう手があるんだけど」
ぴ、と、ヤマグチが指差した空中に炎が燃え上がった。
あまりに突然の出来事に、ナガセがすざーと2mばかり飛び退る。
「グっさん、魔法使えんの!?」
「……使えると便利なヤツだけな。おい、メラだぞ、これ。そんな驚くな。恥ずかしいから」
メラは、一般に“赤の魔法”と言われる攻撃魔法の、初歩の初歩。ゼロからはじめる、火の呪文だ。
ナガセも使えることは使える……はず、なのだが、あまりの威力のばらつきように、タイチからは当面の禁止を食らい、あのシゲルからも猛然と使用を反対されるほどだった。
剣も上手くて魔法も使えて、というのはナガセの父・オルテガもそうだったのだが、より身近な人物だと、余計に悔しい。
そんな取るに足りない嫉妬を、ナガセはついに、口に出しては言えなかった。
ヤマグチは慣れた様子で、枯れ枝に火を移す。
洞窟内に備え付けられたランプに火が灯ると、入り口はほのかに明るんだ。
所々に見える石壁の規則的な鋭角、人の手が加わったことを覗わせる。
「日が落ちるまでには、取り返したいとこだけど」
「ナガセなんてほとんど家出だし」
「マボも似たようなもんでしょー」
言い合う二人の背中を同時に叩き、正面向かわせたヤマグチが付け加える。
「それもあるけど、時間的に余裕がな」
時間。
マツオカはその類の言葉に、意味もなく緊張してしまう。
明日は、半年に一回の定期船が来る日だ。
今日一日を無傷でやり過ごしたいと、この瞬間でさえ、心の何処かで願っていることは包み隠せない。
「明日は、半年に一回の定期船が来る日だ」
まさに思っていたことを復唱され、マツオカはその場に立ち尽くした。しばらく動けなくなる。
だが、ことの次第を把握したナガセが、すぐに豆電球を光らせる。
「あ、そっか。例の冒険者の二人組が、船に乗っちゃったら……」
「……なるほどね」
思わず顔を向けたナガセと、(矛先を逸れたことに安堵した)マツオカが、二人してうなずく。合点がいった。
「国外逃亡されちゃ、オシマイだな」
不敵に笑ったヤマグチの目は、宣戦布告と言わんばかりだった。
ナガセの足は、自然と速まる。
街の外へ出るのは初めてではない。
外、なんて言っても、所詮は小国アリアハン。
見えるのはもっぱら黄緑色の原っぱと、平坦に続く散策道。(ときたま道沿いに出現するスライムやらオオガラスやらの魔物を除けば)別段、めぼしいものも無い。
何せ、十数年以上知り尽くした大陸未満なのだ。
けれどもナガセは、腹の底から沸いてくる高揚感を抑えられなかった。
不謹慎だとは思うが、にやけてしまう。
これが、まるで新しい冒険の第一歩の、その準備体操のようで。
Level 01+b. 岬の洞窟の2人のち3人
「ちょっとそこまで、探険に行ってきますー」と言ったら、あっさりと二人は街門を通過した。何のための衛兵なんだか、とは思ったが、今は今だ。
岬の洞窟を目指し、アリア岬を廻り込む舗道を足早に駆け抜ける。
「……うーむ。さすがはオルテガさんの息子」
「ちょっとぉ……オレはオレでしょ。何で父さんが出てくんの」
「ま、そー言うなって。利用するもんは利用しとかねーと損じゃねぇか」
おかげで実際、助かっていることもある。
練習用に借りたいと言ったら、武器屋のおじさんは銅の剣を。友達(この場合、マツオカ)がしびれスライムに刺されて怪我をしたと言ったら、道具屋のおばさんは薬草と毒消し草を持たせてくれた。失礼、ツケ払いで買った。
ナガセの顔の広さの為せる技である。
「ナガセ、家には何も言ってきてねーのか?」
岬の洞窟まで半日、ナジミの搭で半日かかると目算しても、日が落ちるまでには戻って来れないだろう。
ナガセには帰りを待つ家族がいる。
「言ったよ。今日はマボんとこの教会に泊まる、って」
「なに。珍しく上手い言い訳」
「考えたでしょーオレ! あ、でも……」
マボは?
言いかけたナガセは、その先を口に出来なかった。
何年もの付き合いで、当然のように知っていることを、あえて聞こうとまでした自分を恥じてしまう。
マツオカは、つとめて何気なく会話を続ける。
「あ、オレ? 大丈夫よ。何たって独り身だし?」
冗談めいて笑うマツオカには、家族がいなかった。それでも、言葉の先に、家族がいないことを思いつめるような気配は無い。
「教会の戸締り、アイバに頼んできたから」
「……そっかあ」
ナガセがほっとした笑みを浮かべる。
家族と呼べる人がいるという、幸せ。マツオカを見ていると客観で、よく分かる。
教会には、後輩のくせに妙に頼りになる弟分の神父と、二人が筆頭して面倒見る、身寄りの無い子供たちが待っている。
ストラ川にかかる大橋を越えるころには、さすがに二人とも疲れたのだろう。
それまで小走りだった歩みを遅くすると、風に霞んでいた景色も、鮮やかに見えるようになっていく。
やがて、街道の石畳は姿を消して、代わりに背丈の低い草群が目立ち始めた。
ぽつぽつと並ぶ広葉樹の間隔が、徐々に狭まってきている。
まもなく、クレストの森に差し掛かる。
魔物除けの聖水を取り出しにかかったマツオカが、周囲の異変を敏く察した。
「止まれ……止まれ、ナガセ」
「……!」
慌しく足を止められたナガセの視界を、ちょうど縦に切るように、黒い木の葉のような物体が舞い落ちてくる。
ゆっくりと、出元を探しに目を上げると、木々の合間から覗く、無数の魔物の瞳。
「オオガラスだ」
どうすんの、と真っ先に聞こうとした言葉さえも制される。
振り向くために空気の波が揺れる度に、魔物たちがざわつくのだ。
人を襲い、他の魔物の死肉ですら漁る、一般的なカラスの二倍近くはあろう鳥属のモンスター。群れで来られると、厄介極まりない。
ナガセは、ヤマグチに教わった『モンスター対処法・その2(オオガラスの場合)』を慎重に思い浮かべる。確か。
「動かなきゃ何も無い……と思う。たぶん」
「……いつまで」
「……いつまでも?」
「おい」
小声でつっこんでみたものの、如何せん状況が悪すぎて、漫才の先が続かない。
カラスたちのざわつきが、ひとまず収まるのを待ってから、マツオカがこそこそと尋ねる。
「お前、リーダーとタイチくんに魔法習ってんだろ? 攻撃魔法」
「うん、使っても良いの?」
そこをどうして聞いてくるのか。
マツオカ、しばし考える。
「……やっぱいい」
「ええー? なんでよ」
「だってお前、今使えるの火の呪文だけっしょ? 燃え移りそうだもん」
というのは表向きの理由であって(あながち間違いではないが)、本当はナガセの魔法の不安定さを危惧して、とはマツオカは言わなかった。
不満げに口を尖らせるナガセを尻目に、手にした聖水のフタを開ける。
退魔の力を持つ聖水も、魔物に見つかってしまってからでは、効力が極端に弱まるが……。
「気休めだよなぁ」
そうつぶやきながら、地面に落書きでもするかのように、聖水を零していく。
期待はしていないが、無駄な争いは避けたいところ。聖職者であるマツオカの願いでもある。
「じゃあ、剣で追い払う?」
「あの数を一人でか?」
「マツオカくんも手伝ってよ」
言われてマツオカは、ぱ、と両手を広げて見せた。
オレ、武器、無し。
ジェスチャーで伝わるマツオカの意思に、ナガセは軽く目眩を覚えるかと思った。
「……どうすんの?」
「どうすんだ?」
互いに問いかけ合って、以降、無言で唸り込む。
オオガラスは、そんな頭上で、相変わらず目を光らせている。
さて、二人は、さっぱり気が付いていなかった。人の気配がすぐ真後ろまで近づいていたことに。
砂利を踏みしめ、二人の背後に近づく足音が、ぴたりと止まる。
すらり抜き放たれた剣が、鞘を滑る照り返し。森の木々に映った光の帯。
不規則な光のちらつきに気付き、マツオカがそちらに向かおうとした、が。
「頭下げろ」
凛とした声が、森に反響する。
ぎゃあぎゃあ、と無数の黒い羽が視界を埋め尽くす。
一瞬の後――羽ばたきの音は捌けるように遠ざかっていた。
頭を下げる、ヒマすら無かった。
かろうじて腕で覆った視界を開けてみると、足元にオオガラスのなれの果てが一体、二体。
あれだけ輝いていたオオガラスの邪視も、すっかり森から消え去っていた。
呆然と、顔を上げようとした矢先に、無造作に背中にかけられる声がある。
「よぉ、悪ガキども」
ナガセとマツオカは、二人して“何か悪いことをしでかした後の子供”のように、背筋をぴんと伸ばして直立不動のまま、首が90度回転、目線だけが合う。
そおっと、同時に後ろ目で見ると、林道のど真ん中に、仁王立ちで構える黄金熊、ならぬ、アリアハン騎士団長・ヤマグチであった。
その距離、わずかに1m。
「……何で、グっさんが」
「ここに」
「お前らのやろうとしてることなんざ、お見通しなんだよ」
鼻で笑った後のセリフは、さながら悪代官、否逆、正義のヒーロー。
……さて一体、どの辺りの行動が怪しかったのだろうか。
思い当たる節がありすぎて、二人は何も言い返せない。だが、ナガセは時に、はたと妙案を得る。
「あ、あのっ、違うんです。オレ、岬の洞窟に行こうと思って。ほら! 前、ヤマグチくんが言ってた」
うろたえた口調ながら、ナガセが必死に説明し出した。
確かに、多少なりとも信憑性がある。ヤマグチも視線を放る。
「どうしても、一人で行ってみたくて……でも、やっぱ一人は嫌だから、マツオカくんにも、ついてきてもらおうって」
ナガセの言葉の成り行きを、マツオカも平静を装って聞き入る。
そんな二人を交互に見比べた後、ヤマグチはぽつりと応えた。
「ふぅん、腕試し。で、ナジミの搭に行く気か?」
「え! 何でわかッ」
刹那、真横から飛んできた僧侶のエルボーが、ナガセの口元にクリーンヒット。
あまりの痛さに仰け反ったナガセが涙目で睨みつけると、マツオカもまた、こう、声には言い表せない怒りの目つきで対抗する。
そのどちらも、今のヤマグチには推測を裏付ける証拠にしかならなかったようだ。
「騎士団、あまく見んなよ」
いつになく低音で凄まれて、ついに二人は地べたに正座してしまった。
「……ゴメンナサイ」
「……スミマセン」
「……」
項垂れた頭の上の方で、空気が笑ったのに、先に気付いたのはナガセだった。
「……ぶはッ! あー、もうだめ、おかしすぎ! お前ら何で正座だよ!」
「ヤマグチ、くん」
「……兄ぃ?」
未だ恐々と様子を覗うような小熊二匹の姿に、ヤマグチが大笑いする。
「ヤマグチくん、オレらが搭に行くって……知ってたんスか」
「いや、知らなかったけど。先刻も言っただろ? “お前らの行動パターンなんかお見通し”だって」
と、そう言ったところでヤマグチは少し止まって、立ち上がらせた二人に切り出した。
「ホントはな。シゲルくん……うちのリーダーに頼まれた」
「リーダー、来たの!?」
「ああ、あのあとすぐにな」
時間的にも、間違い無く“すぐに”、おそらく、ナガセとマツオカが帰った後、シゲルは迷いも憂慮も無くヤマグチの元に直行したことになる。
二人がナジミの搭に向かっている、という情報を懐に携えて。
「あんのジジイ……話すなって言ったのに」
「話すな」ってのは、「話してくれ」って言うとるようなもんやでー。
カラカラと笑うシゲルの姿が目に浮かぶようだ。
「感謝しとけよ」
諭されたマツオカは、照れ臭そうにそっぽを向いて、一人先に立って歩き出した。
のんびりと後からそれを追い越していくヤマグチの後に、ナガセが並ぶ。
「じゃ、ヤマグチくん、タイチくんが犯人だって……」
「思ってるわけねーだろ。だから、俺がこうして捜査に乗り出してんじゃねーかよ」
森の分け入った野ざらしの小道を、ヤマグチは先頭に立って歩いていく。
幸いにも先ほどマツオカが放った聖水の効力が働いているらしく、辺りに魔物の気配は感じられない。
「タイチを呼んだのは、確かに犯人候補ってのもあったけど、むしろ逆」
「逆?」
「あいつは探索呪文を使えるからな」
探索、呪文。
ナガセには耳慣れない言葉である。
魔法の一種なのだろうが、そういう類のものはシゲルからも教わっていなかった。
「俺も、魔法のことは詳しくないから、よくわかんねぇけど……」
ナガセが一瞬、面白くない顔でもしたらしい、ヤマグチが申し訳なさそうに口を挟む。
「ナジミの搭あたりに、盗まれた宝物の反応があるらしいって。タイチの話でな」
「ねェ、その盗まれたもんって、一体なによ?」
「レッドオーブ」
即答され、マツオカは不覚にも動揺した。
ヤマグチはそれに気付いているのか、流暢に説明を続ける。
「この世界に、全部で六個ある宝玉のうちの、一個って言われてる」
「あ、オレ聞いたことある。六つ全部集めると、願いごとが一つだけ叶うんだっけ?」
ナガセが嬉しそうに話に加わった。伝説やら冒険譚を、熱心に聞き入る彼らしい。
「まあ、その噂が本当かどうかは解らねぇけど……凡人にはただの丸っこい石だな」
ヤマグチはそう言って、肩をすくめる。
「それにアリアハンのは本物だけど……偽物も多いんだ。換金できるとは思えねぇんだよ」
「金目当ての賊じゃ無いって、こと?」
「タイチがそうだった」
突拍子に、その名を出されるとは。虚を突かれた驚きのあまり、ナガセとマツオカが歩みを止める。
「ウワサの方だよ。六個集めるとー、ってヤツ」
「“願いごとが一つだけ叶う”?」
「さぁね……どうだか」
途端、急激に言葉数の無くなったヤマグチに、マツオカは思わずナガセの顔色を覗う。
何か、聞いてはいけないことだったのだろうか。(話してくれたのだから、それは無いだろうが。)
会話が途絶え、気まずい沈黙だけが残ろうとしていた、ちょうどそのとき。
森の木漏れ日が一気に照度を増した。木々が開ける。
「ここだ」
ヤマグチが足を止めた。
高い針葉樹の合間に、岩壁が盛り上がった丘のように、ぱかりと、大人二人が横並びで通れそうなほどの穴がひとつ口を開けている。
アリア岬の洞窟である。
「……はー、ここが岬の洞窟、かぁ。オレもここ来んの始めてよ」
「天井低いから気をつけろよ」
感慨深げに、マツオカは洞窟の入り口を行ったり来たりしてみる。
入り口は天然洞穴ならではの、岩と土の混じった壁。
昼過ぎの眩しい日差しすら、洞窟のほんの数m奥で途絶えてしまうだろう。
「……まっくら」
「そりゃ洞窟だからな」
素直な感想を漏らしたナガセに、はい、と差し出されたヤマグチの手が、何かを催促している。
訳がわからず、顔を眺め返すナガセがマツオカに助けを求めると、マツオカもまた首を傾げる。
その様子を見たヤマグチの方が、ますます不信げに目を細めた。
「だから……灯り。松明は?」
「……あ」
「へ? たいまつ……?」
微妙な雰囲気の中で、しばらく双方の道具袋を見やったナガセとマツオカは、ぱぱ、と両手を広げて見せた。降参、の意味でもあった。
ヤマグチは決して大袈裟ではない驚きようで、詰め寄る。
「何? 松明も持ってこなかったのか!?」
「だっ……灯りあると思ってたんだよ!」
「勘弁しろよ……そんなんで、どうやって洞窟抜ける気だったんだ」
呆れた口調で説教しながら、ヤマグチは雑木林の地面を見回す。
見繕ったのは、乾いて折れた手頃な木の枝。一つ拾うと、手のひらから軽く放る。
「ま、こーいう手があるんだけど」
ぴ、と、ヤマグチが指差した空中に炎が燃え上がった。
あまりに突然の出来事に、ナガセがすざーと2mばかり飛び退る。
「グっさん、魔法使えんの!?」
「……使えると便利なヤツだけな。おい、メラだぞ、これ。そんな驚くな。恥ずかしいから」
メラは、一般に“赤の魔法”と言われる攻撃魔法の、初歩の初歩。ゼロからはじめる、火の呪文だ。
ナガセも使えることは使える……はず、なのだが、あまりの威力のばらつきように、タイチからは当面の禁止を食らい、あのシゲルからも猛然と使用を反対されるほどだった。
剣も上手くて魔法も使えて、というのはナガセの父・オルテガもそうだったのだが、より身近な人物だと、余計に悔しい。
そんな取るに足りない嫉妬を、ナガセはついに、口に出しては言えなかった。
ヤマグチは慣れた様子で、枯れ枝に火を移す。
洞窟内に備え付けられたランプに火が灯ると、入り口はほのかに明るんだ。
所々に見える石壁の規則的な鋭角、人の手が加わったことを覗わせる。
「日が落ちるまでには、取り返したいとこだけど」
「ナガセなんてほとんど家出だし」
「マボも似たようなもんでしょー」
言い合う二人の背中を同時に叩き、正面向かわせたヤマグチが付け加える。
「それもあるけど、時間的に余裕がな」
時間。
マツオカはその類の言葉に、意味もなく緊張してしまう。
明日は、半年に一回の定期船が来る日だ。
今日一日を無傷でやり過ごしたいと、この瞬間でさえ、心の何処かで願っていることは包み隠せない。
「明日は、半年に一回の定期船が来る日だ」
まさに思っていたことを復唱され、マツオカはその場に立ち尽くした。しばらく動けなくなる。
だが、ことの次第を把握したナガセが、すぐに豆電球を光らせる。
「あ、そっか。例の冒険者の二人組が、船に乗っちゃったら……」
「……なるほどね」
思わず顔を向けたナガセと、(矛先を逸れたことに安堵した)マツオカが、二人してうなずく。合点がいった。
「国外逃亡されちゃ、オシマイだな」
不敵に笑ったヤマグチの目は、宣戦布告と言わんばかりだった。
聖水 : 弱いモンスターを退ける。
メラ : 火の下級魔法。小さな火の玉で敵を攻撃する。
メラ : 火の下級魔法。小さな火の玉で敵を攻撃する。