ナガセは、森を歩いていた。
点々と続く木漏れ日が、歩みを引っ張っている。
(そうだ、あの日も、春の始めごろだった。)
記憶にしっかりと留めるにはあまりにも変化の無い天候だった。
ただ唯一覚えているのは、真っ赤な夕焼けを背負った西向きの窓。
(あの、とても鮮やかな光の色だけを、覚えている。)
「奥方様、城より参りました! 使いの者です!」
突然、忙しく叩かれる玄関の戸に、ナガセは料理皿を並べる手を止めた。
予感は常に隣り合わせにあった。もう何月も指が震える日が続いて、怯えるのに慣れてしまったのだ。
凶と捉えるには、まだほど遠かった。
口を尖らせ食事を待つ子供に微笑みかける。勘の良い子だ、隙を見せればすぐに悟る。
(道具屋のおばさんが、夕食の一品をおすそわけに来たのだと思っていた。)
何事も無いような顔で、ナガセは意を決して、玄関を開ける。
騎士剣を携えた壮年の男が一人、息を切らしながら立っていた。
(騎士団の前の隊長さん。今は第一線を退いて、兵士たちに剣を指導している、おじいさんだ。)
「オルテガ様の旅の同行者が、戻って参りました」
「ヒガシヤマ殿? ご無事なのですか? それで……あの人は」
「オルテガ殿は……ギアガの火山にて」
その先を言わずに、うつむいた男の瞳が小刻みにぶれていることを知る。
何のことは無い。いつかは、こうなると解っていたのだから。
ナガセは長い深呼吸のあとに、全ての表情を消して、そっとつぶやく。
「そうですか」
振り向くと、小さな男の子がじっとこちらを見つめている。不機嫌そうに、心配そうに。
盗み見していた、という罪悪でもあったのだろうか、すぐに顔を逸らしてしまった。
何一つ並んでいない食卓を眺めている。
(よく聞こえなかった。聞いてはいけない話なのだろうと。)
連れていかなければ、と突然に思い立った。
唐突に、何か、この言葉の無い空間から連れ出さなければ、という衝動に駆られたのだ。
「いらっしゃい、ナガセ」
ナガセは、“ナガセ”を手招きした。
(あの子は、オレだ。)
ここは、泣き崩れる場面では、無い。
短く息を吸い込む。春の暖気が、冷たく感じる。
つないだ子供の手の暖かさでも、心は落ち着いてはくれない。
(つないだ母の手は、いつもよりも冷たかったのだから。)
子供を、半ば急かすような早さでもって導いて、ナガセは城にやってきた。
城内では、侍従や兵士たちが慌しく、しかし慎ましく動き回っている。
出迎えた老兵士に付き添われ、大広間を横切っていく。
(この老兵は、それからしばらくして亡くなったはずだ。)
周りの喧騒も、それらから注がれる無数の視線も気に留めない振りをするが、辛い。
子供は敏感に感じ取っているのだろう。居辛そうに視線を泳がせている。
(周りがささやく声を聴いた。「あの子が、オルテガの血を引く子だ」と。)
「奥方」
長い長い階段を上り終えたフロアで、待っていた声にようやく肩を伸ばす。
「神父様。ご無事で何よりです」
「いえ。奥方もお変わり無いようで」
長い僧服姿、すらりと背筋の伸びた影、鼻筋の通った顔立ち。
一見すると変わり無い神父は、だが、その少しずつが年月を経ていた。
改めて、苦難の路だったのだろうと、思い知らされる。
「王子様のご容態は……?」
「大丈夫ですよ。あれはそう簡単に死ぬような男じゃない。ですが……」
苦しげに閉口して、深く頭を下げた神父にナガセは戸惑う。
(つまらない、と思ったので、オレは広間を散策していたっけ?)
「申し訳ありません、奥方」
「止して下さい。神父様、あなたが気に病むことは何も……」
「私は、あの方を助けることが出来なかった」
「いいえ、これで……これで、良かったのです」
本当に、これで良かったのだと思っていた。
深読みしたのだろう、神父は哀れみの表情を見せる。
ふと、その神父に向けての視線を感じて、ナガセは顔を上げる。
広間の大きな柱の影に座り込む、一人の子供が見えた。
ナガセと(子供のナガセと)同じ年頃だろうか。アリアハンでは見かけない顔である。
「あの子は?」
「ああ……旅先で、預かりました。と言っても、親兄弟から頼まれたわけでは無いのですが」
真意を図りかねて神父を見上げると、彼は小さく、寂しげな苦笑を返した。
「あの子の身内は全て他界しています。生き残った、あの子だけを連れて来ました」
「それは」
「災厄の一端」
神父が険しい目でつぶやいた、“災厄”という言葉。
今のナガセには、何故かしっくりと理解できた。
それは、世界を静かに、確実に侵蝕している見えない圧力。
「マサヒロ」
神父が呼ぶと、少年はふいと、こちらを見る。
その近くに立ち尽くす、同じ年頃の子供がこちらを振り向いたのにも気づく。
(マツオカくんだ。そうだ、オレらが最初に会ったのは、お城だった。)
「ナガセ、そこにいるの?」
いつのまに離れたのだろうか。驚くが、同時に自分の失態に安堵する。
駆け寄ってきた子供が、この会話を聞かずにいてくれたのだから。
「ナガセ、か。そうか、大きくなったな」
神父がこの日初めて、心から微笑んだのを見た。
「前に会ったときは、まだ……こんなだった」
ほんの微かな笑みではあったが、ナガセはつられて微笑み返す。
「育ち盛りですから。五年ほど会っていなければ当然でしょう」
「そうです。五年も、ですよ。五年かかって……オルテガ殿でも、無理、だったのか」
長いようで、短いような五年間だった。
子供が、何かを感じ取って、ナガセの服の裾をきつく握り締めている。
「いいえ、まだ、この子がおります」
ナガセは腰を屈める。
子供の温かい手を、冷たい手で包み、揺れる目線と同じ高さになって、しっかりと見据える。
その一瞬のうちに、ナガセは決意した。
「夫の遺志は、この子が継いで見せますわ」
ナガセは、嘘を吐いたのだ。
嘘だと、自分以外の誰にも気付かれないような、巧妙な嘘を吐いたのだ。
(母は、父を重ねたわけではなかった。)
静かに子供を抱き寄せる。
忘れてしまっても構わない。覚えていてくれれば、それで尚良い。
そう言えば、決して“あの人”の後を追わないだろうと思ったからだ。
この子は、賢い。
(賢くなんて、ない。)
世界を救う旅。全ての人のために、たった一人が死ぬ旅。
これが、勇者と呼ばれた末路なら。
ナガセは、
(違う、今、“母“となったオレは、)
抱えた子供の肩に、一粒の涙を落とす。
あなたにはただ、自分の道を見つけるためだけに生きていてほしい、と。
全て、覚えていた。
忘れるはずなど、なかったのだ。
決して変えようの無い過去に、無数の記憶という細工を施していたのは自分自身であって、他の誰でもない。
剥がれ落ちた鍍金の下の真実は、今の自分になら耐えられるのだろうか。
そういう意味なのだろうか。
ナガセは森を歩いていた。
点々と続く木漏れ日が、歩みを引っ張っている。
どこかから、小川のせせらぎが聴こえる。
何かに乱反射した虹色の光が、足元に降り注いでいる。
夢か幻かの光景だった。
夢と気がついた瞬間に、それは消え去ってしまう。
『もう、お行きなさい』
誰かに命じられたような感覚が、ナガセの歩みを止めた。
――もう、帰らなければ。
そして、今、夢だと気がついた目の前から、天の森は消え去っていく。
『思い出して』
真白なミルクパズルの、全てのピースが合わさった。
視界から薄れていく緑の光の中で、ナガセは、ひとつ、思い出す。
父は、あの日に――死んだのだと。
点々と続く木漏れ日が、歩みを引っ張っている。
Level 04+c. 天の森の1人-(2)
冬を二巡りほど前に終わらせて、やっと芽吹いた春との境、だっただろうか。(そうだ、あの日も、春の始めごろだった。)
記憶にしっかりと留めるにはあまりにも変化の無い天候だった。
ただ唯一覚えているのは、真っ赤な夕焼けを背負った西向きの窓。
(あの、とても鮮やかな光の色だけを、覚えている。)
「奥方様、城より参りました! 使いの者です!」
突然、忙しく叩かれる玄関の戸に、ナガセは料理皿を並べる手を止めた。
予感は常に隣り合わせにあった。もう何月も指が震える日が続いて、怯えるのに慣れてしまったのだ。
凶と捉えるには、まだほど遠かった。
口を尖らせ食事を待つ子供に微笑みかける。勘の良い子だ、隙を見せればすぐに悟る。
(道具屋のおばさんが、夕食の一品をおすそわけに来たのだと思っていた。)
何事も無いような顔で、ナガセは意を決して、玄関を開ける。
騎士剣を携えた壮年の男が一人、息を切らしながら立っていた。
(騎士団の前の隊長さん。今は第一線を退いて、兵士たちに剣を指導している、おじいさんだ。)
「オルテガ様の旅の同行者が、戻って参りました」
「ヒガシヤマ殿? ご無事なのですか? それで……あの人は」
「オルテガ殿は……ギアガの火山にて」
その先を言わずに、うつむいた男の瞳が小刻みにぶれていることを知る。
何のことは無い。いつかは、こうなると解っていたのだから。
ナガセは長い深呼吸のあとに、全ての表情を消して、そっとつぶやく。
「そうですか」
振り向くと、小さな男の子がじっとこちらを見つめている。不機嫌そうに、心配そうに。
盗み見していた、という罪悪でもあったのだろうか、すぐに顔を逸らしてしまった。
何一つ並んでいない食卓を眺めている。
(よく聞こえなかった。聞いてはいけない話なのだろうと。)
連れていかなければ、と突然に思い立った。
唐突に、何か、この言葉の無い空間から連れ出さなければ、という衝動に駆られたのだ。
「いらっしゃい、ナガセ」
ナガセは、“ナガセ”を手招きした。
(あの子は、オレだ。)
ここは、泣き崩れる場面では、無い。
短く息を吸い込む。春の暖気が、冷たく感じる。
つないだ子供の手の暖かさでも、心は落ち着いてはくれない。
(つないだ母の手は、いつもよりも冷たかったのだから。)
子供を、半ば急かすような早さでもって導いて、ナガセは城にやってきた。
城内では、侍従や兵士たちが慌しく、しかし慎ましく動き回っている。
出迎えた老兵士に付き添われ、大広間を横切っていく。
(この老兵は、それからしばらくして亡くなったはずだ。)
周りの喧騒も、それらから注がれる無数の視線も気に留めない振りをするが、辛い。
子供は敏感に感じ取っているのだろう。居辛そうに視線を泳がせている。
(周りがささやく声を聴いた。「あの子が、オルテガの血を引く子だ」と。)
「奥方」
長い長い階段を上り終えたフロアで、待っていた声にようやく肩を伸ばす。
「神父様。ご無事で何よりです」
「いえ。奥方もお変わり無いようで」
長い僧服姿、すらりと背筋の伸びた影、鼻筋の通った顔立ち。
一見すると変わり無い神父は、だが、その少しずつが年月を経ていた。
改めて、苦難の路だったのだろうと、思い知らされる。
「王子様のご容態は……?」
「大丈夫ですよ。あれはそう簡単に死ぬような男じゃない。ですが……」
苦しげに閉口して、深く頭を下げた神父にナガセは戸惑う。
(つまらない、と思ったので、オレは広間を散策していたっけ?)
「申し訳ありません、奥方」
「止して下さい。神父様、あなたが気に病むことは何も……」
「私は、あの方を助けることが出来なかった」
「いいえ、これで……これで、良かったのです」
本当に、これで良かったのだと思っていた。
深読みしたのだろう、神父は哀れみの表情を見せる。
ふと、その神父に向けての視線を感じて、ナガセは顔を上げる。
広間の大きな柱の影に座り込む、一人の子供が見えた。
ナガセと(子供のナガセと)同じ年頃だろうか。アリアハンでは見かけない顔である。
「あの子は?」
「ああ……旅先で、預かりました。と言っても、親兄弟から頼まれたわけでは無いのですが」
真意を図りかねて神父を見上げると、彼は小さく、寂しげな苦笑を返した。
「あの子の身内は全て他界しています。生き残った、あの子だけを連れて来ました」
「それは」
「災厄の一端」
神父が険しい目でつぶやいた、“災厄”という言葉。
今のナガセには、何故かしっくりと理解できた。
それは、世界を静かに、確実に侵蝕している見えない圧力。
「マサヒロ」
神父が呼ぶと、少年はふいと、こちらを見る。
その近くに立ち尽くす、同じ年頃の子供がこちらを振り向いたのにも気づく。
(マツオカくんだ。そうだ、オレらが最初に会ったのは、お城だった。)
「ナガセ、そこにいるの?」
いつのまに離れたのだろうか。驚くが、同時に自分の失態に安堵する。
駆け寄ってきた子供が、この会話を聞かずにいてくれたのだから。
「ナガセ、か。そうか、大きくなったな」
神父がこの日初めて、心から微笑んだのを見た。
「前に会ったときは、まだ……こんなだった」
ほんの微かな笑みではあったが、ナガセはつられて微笑み返す。
「育ち盛りですから。五年ほど会っていなければ当然でしょう」
「そうです。五年も、ですよ。五年かかって……オルテガ殿でも、無理、だったのか」
長いようで、短いような五年間だった。
子供が、何かを感じ取って、ナガセの服の裾をきつく握り締めている。
「いいえ、まだ、この子がおります」
ナガセは腰を屈める。
子供の温かい手を、冷たい手で包み、揺れる目線と同じ高さになって、しっかりと見据える。
その一瞬のうちに、ナガセは決意した。
「夫の遺志は、この子が継いで見せますわ」
ナガセは、嘘を吐いたのだ。
嘘だと、自分以外の誰にも気付かれないような、巧妙な嘘を吐いたのだ。
(母は、父を重ねたわけではなかった。)
静かに子供を抱き寄せる。
忘れてしまっても構わない。覚えていてくれれば、それで尚良い。
そう言えば、決して“あの人”の後を追わないだろうと思ったからだ。
この子は、賢い。
(賢くなんて、ない。)
世界を救う旅。全ての人のために、たった一人が死ぬ旅。
これが、勇者と呼ばれた末路なら。
ナガセは、
(違う、今、“母“となったオレは、)
抱えた子供の肩に、一粒の涙を落とす。
あなたにはただ、自分の道を見つけるためだけに生きていてほしい、と。
全て、覚えていた。
忘れるはずなど、なかったのだ。
決して変えようの無い過去に、無数の記憶という細工を施していたのは自分自身であって、他の誰でもない。
剥がれ落ちた鍍金の下の真実は、今の自分になら耐えられるのだろうか。
そういう意味なのだろうか。
ナガセは森を歩いていた。
点々と続く木漏れ日が、歩みを引っ張っている。
どこかから、小川のせせらぎが聴こえる。
何かに乱反射した虹色の光が、足元に降り注いでいる。
夢か幻かの光景だった。
夢と気がついた瞬間に、それは消え去ってしまう。
『もう、お行きなさい』
誰かに命じられたような感覚が、ナガセの歩みを止めた。
――もう、帰らなければ。
そして、今、夢だと気がついた目の前から、天の森は消え去っていく。
『思い出して』
真白なミルクパズルの、全てのピースが合わさった。
視界から薄れていく緑の光の中で、ナガセは、ひとつ、思い出す。
父は、あの日に――死んだのだと。