「ねぇ、やっぱ返しに行こう」
窓から眼下に広がる、夕焼け色の海。
日が傾いて、まだ数時間と経っていない。
ついに、そう切り出された。時間の問題だったことは分かっていた。
気持ちがぐらつくのが怖くて、わざと厳しい口調で言い返してやる。
「……バカ。何で盗んだものを返しに行かなきゃなんねーんだよ」
「だって……」
言い分はたくさんあるだろう。
多すぎて、整理整頓している間に、言葉が詰まってしまったのだ。
しばらくの間を置いて、彼はひとつずつ、反論しだす。
「聞いたでしょ? ここのモンスターが弱いのは、オーブの力なんだよ」
「……ウワサだろ、それ」
「でも、この国は平和だし、みんな幸せに暮らしてる。オレら、邪魔してんじゃねーの?」
「……」
「それに、たとえ六個集めても……上手くいくかは、誰も知らないんだよ?」
「ケン」
どっち付かずの問答を、無理やりに打ち切ったのは、この心もまた揺らいでいたからにちがいない。
「お前、帰りたくないのかよ」
「……それは」
そうして、黙りこくってしまった相手と睨み合う。
彼は優しすぎる声だから、口では喧嘩腰になれないのを知っている自分は、卑怯だ。
「帰りたいよ、帰りたい」
ぽつりと、泣きそうな語尾に追随する「出来るものなら」という聞こえないセリフ。
それを声に出さなかった彼に、少し安心する。
やっと見つけた蜘蛛の糸だ、簡単に手放せるはずが無い。
「帰るんだよ、オレたちは」
「わかってるよ」
返事は早かった。機嫌が悪いのは、たぶん誰のせいでもなく、自身の優柔不断さに。
そして、彼のやさしさに。
「……わかってるよ」
「“バブルスライム”! あんた、いーかげんモンスターの名前覚えて……だあ!」
半ば条件反射のツッコミに、マツオカ、うっかり大きく振りかぶりすぎたのだ。
体当たりしてきたオオガラスを眼前に、かろうじて避けたばかり。
ナガセはナガセで、例の毒色平べったいスライムと死闘(?)を繰り広げていた。
平均レベル6パーティー(約一名の功績により底上げ)は、石造りのフロアを騒々しく駆けまわっていた。
円形にカーブを描く壁を、ぽかりとくり貫いたような窓から洩れる、紺色の帯。
一体、何時間前に日が落ちたのだろうか。
ランプの灯りが繋ぐ室内からは、すでに揚がっているだろう、月の高さが見えてこない。
見た目に楽しそうな二人の後ろで、奮闘する戦士が、人知れず溜め息を吐いている。
「ハイキングじゃねーんだぞ、お前ら」
そう釘を刺しておき、さらにマツオカを背にかばう余裕。
しかし、見事な剣さばきで、ヤマグチは二体の一角ウサギを両断していた。
実に、戦い慣れている。ナガセは目を瞬かせた。
あれほどの剣技を身につけようとなると、さすがに二年では、無理なのかもしれない。
「余所見するな」
「はいっ、ごめんなさいッ」
じっくり見ていたら、怒られた。
返事と同時に振り返って、ナガセは練習用に借りた銅の剣を構える。
飛び込んできたバブルスライムの動きを見極めて、その攻撃の直前。寸分のうちに、斬り込む。
「……っと、わわッ」
加減の出来なかった剣先が、塔の石壁を掠めた。
刃の傷む音に怯むことなく、体勢を整えたナガセの目が、即座に次の動きを探している。
……幾分か、マシな顔になってきたじゃねーか。
ヤマグチは口元だけを笑わせると、最後の一角ウサギを仕留めた。
さて、すっかり戦闘の片付いたところで。ひよっと、どこかから現れたマツオカが辺りを忙しげに確認してから、ほっと一息。終了の合図代わりに、ぽんと手を叩く。
「はいはーい、おつかれっ。二人ともケガしてないね?」
「……マボ。何もやってないじゃん」
「オレ、僧侶だもん。僧侶に戦わせんの?」
実際のところ、魔物退治専門の僧侶も大勢いるし(マツオカの養父に当たる僧侶などが、まさしくそうで)、僧侶用の攻撃魔法、武器防具も一応揃っている。
彼が今現在、戦闘に参加しない理由は、至極明快である。
「武器持ってないし。攻撃魔法、得意じゃないし。てか、使うことになるとは思わなかったし……」
ようするに、手持ち無沙汰なため、単純に肉体労働したくないらしい。
ヤマグチが細い目で軽く睨みつつ、肩を落とす。
「だったら、ナガセの毒でも治療しとけ」
「うえッ、毒!?」
「放っておくと回る……あ、ナガセ、そのまま止まれ」
情けない声を上げたナガセに静止を命じて、マツオカを手招きした。
動かなければ回らない、バブルスライムの毒のようである。
「ん、出番?」
この異常(弱冠)事態に、ちょこちょこ近寄ってきて意外にも冷静なマツオカが、ナガセには頼もしくもあり、ちょっと不安でもある。
「“……悪しき邪気を払う浄化の光を”」
軽いノリそのままに、口元で小さく神言を詠唱する。
さりげなくかざした右手を、淡く青白い光が包む。
光の霧がふわりと、ナガセの目の前をも照らした気がしたが、次の瞬きの間に消えていた。
「ほい、終了」
呆気ないマツオカの一言に、ナガセは反応も出来ない。
点目のまま、ぱぱぱと、自分の腕をシェイクしたり、回したりしてみるが、どこにも異常は無い。むしろ、軽い。
「……すっごいマボ! やっぱ魔法使えるんだー!」
「お前……人を何だと思ってるわけ?」
「何ちゃって神父」
「おい」
笑いかけたナガセだったが、次の彼の行動に、表情が固まってしまった。
マツオカは、足下に落ちる魔物の残骸をこまめに寄せては、場を清めてやっていたのだ。
「魔物の善悪って、付け難いんだよね」
そう言いながら、モンスターの痕に向かって小さく十字を切ったのを見て、ナガセの心は、少し、いやだいぶ、痛む。
「ナガセ」
思うところを悟られたのだろう、ヤマグチに名を呼ばれた。
「あんまり考えるな……ってのはキツイかもしれないけど。今は割り切っとけ」
「……うん」
そう簡単に割り切れるものでは無いと、ヤマグチも解っている。
こと、ナガセに関しては尚更だ。
二年、間近で見てきた彼の剣技は、最後の一歩が、いつも優しい。
「行こう」
迷っていること自体が矛盾なのだ。
いくらかは上達した剣技を、何のために使うのかと聞かれれば言葉に詰まる。
練習と実戦とは全くの別ものだと、頭では分かっているはずなのだ、頭では。
ふいと、颯と顔を上げたナガセは、フロアの奥を目指して歩き始めた。
その歩みとは裏腹に、やり切れない思いが表情に出てしまっている。
ヤマグチの覚った目と、マツオカの援護を促す目が合った。先に走り寄ったのはヤマグチだ。
「おい」
「うぉ……ビックリしたあ」
その背後から、ナガセの首根っこを肘でがしりと固めてやる。
「……よし。やっぱり考えるか」
肘固めで後ろに回せない視界の隅で、ヤマグチが笑う気配だけがある。
ナガセは言葉の意味を考えあぐねて、大きく見開いた瞳で、三度瞬きした。
「え、ええ?」
「考えて考えて、自分で答え出すほうが早い」
いつのころからか、世界には多種多様な生物がいて、モンスターと言われる怪物、いわゆる魔物も存在した。
各国を渡り歩く行商人、旅人、冒険者、多くが不幸にも魔物によって命を落とす。
そして実に難儀なことに、モンスターに襲われたら、反撃するしか身を守る術が無いのである。
「冒険者、なりてーんだろ?」
「……」
ナガセは黙ったまま、だが強く、うなずいた。
その目に覇気が戻っていることに、マツオカは少なからず安堵する。
「ま。んな小難しいこと考えるの、お前には無理だろーけど」
「あー! ひでぇマボ!」
幼なじみの毎度のどつきあいを横目に、ヤマグチは少し眼を細めて、一人の戦士という立場で、フロアを振り仰いだ。
絶対に避けられない問題のひとつふたつ、諦めてしまえば、確かに片は付く。
だが、ヤマグチは時折、思う。
どんなに不変的なことでも、自身の倫理に反する限り認めない、そんな往生際の悪い人種の中に、今、目の前に立つ一人がいる。
本当に行動を起こせる人間がほんの一握りだとしても、彼ならば、否、彼だからこそと、ヤマグチは当てのない期待をかけてしまう。
過大評価しすぎなのだろうか?
ナガセが、いつか世界の摂理すら変えてしまいそうな、そんな青年に見えるのは。
扉一枚隔てた向こうを、いくつかの物音が通りすぎていく。
この会話の無い空間には、音が大きすぎる。
「騒がしいな」
口にすると、さらに鳴り響く物音が臨場味を増すようだった。
反対側の壁にもたれて座り込んでいた青年が、のろのろと顔を上げる。
「モンスターでしょ?」
「“何か”が来ないと、ここのモンスターは動かねぇよ」
聖水で結界を張ったこのフロアに、扉を蹴破ってまで侵入するモンスターはいない。
そもそも、周辺一帯、またナジミの搭に住みついたモンスターは、聖水を投げつけるだけで退散してしまうほど、保守的でレベルが弱いのだ。
二人の敵ではない。
近づいてきているのは、“別の手強い何か”、だ。
耳を欹てると、階下に複数の靴音が響いていることに、簡単に気がついた。
「……潮時か」
決意とも悔いとも取れる一言だった。
耳にした青年はしばらく瞑目し、迷いだ思惟を振り払い、立ち上がる。矢先、荷袋を探り出した。
“別の手強い何か”に対抗するために。
その淡々とした様子を横目に入れながら、低い窓枠から覗いた空には、星がぽつぽつと散っていた。
窓から眼下に広がる、夕焼け色の海。
日が傾いて、まだ数時間と経っていない。
ついに、そう切り出された。時間の問題だったことは分かっていた。
気持ちがぐらつくのが怖くて、わざと厳しい口調で言い返してやる。
「……バカ。何で盗んだものを返しに行かなきゃなんねーんだよ」
「だって……」
言い分はたくさんあるだろう。
多すぎて、整理整頓している間に、言葉が詰まってしまったのだ。
しばらくの間を置いて、彼はひとつずつ、反論しだす。
「聞いたでしょ? ここのモンスターが弱いのは、オーブの力なんだよ」
「……ウワサだろ、それ」
「でも、この国は平和だし、みんな幸せに暮らしてる。オレら、邪魔してんじゃねーの?」
「……」
「それに、たとえ六個集めても……上手くいくかは、誰も知らないんだよ?」
「ケン」
どっち付かずの問答を、無理やりに打ち切ったのは、この心もまた揺らいでいたからにちがいない。
「お前、帰りたくないのかよ」
「……それは」
そうして、黙りこくってしまった相手と睨み合う。
彼は優しすぎる声だから、口では喧嘩腰になれないのを知っている自分は、卑怯だ。
「帰りたいよ、帰りたい」
ぽつりと、泣きそうな語尾に追随する「出来るものなら」という聞こえないセリフ。
それを声に出さなかった彼に、少し安心する。
やっと見つけた蜘蛛の糸だ、簡単に手放せるはずが無い。
「帰るんだよ、オレたちは」
「わかってるよ」
返事は早かった。機嫌が悪いのは、たぶん誰のせいでもなく、自身の優柔不断さに。
そして、彼のやさしさに。
「……わかってるよ」
02. ナジミの塔の3人と2人-(1)
「うわ、マボ! 毒色平べったいスライム!」「“バブルスライム”! あんた、いーかげんモンスターの名前覚えて……だあ!」
半ば条件反射のツッコミに、マツオカ、うっかり大きく振りかぶりすぎたのだ。
体当たりしてきたオオガラスを眼前に、かろうじて避けたばかり。
ナガセはナガセで、例の毒色平べったいスライムと死闘(?)を繰り広げていた。
平均レベル6パーティー(約一名の功績により底上げ)は、石造りのフロアを騒々しく駆けまわっていた。
円形にカーブを描く壁を、ぽかりとくり貫いたような窓から洩れる、紺色の帯。
一体、何時間前に日が落ちたのだろうか。
ランプの灯りが繋ぐ室内からは、すでに揚がっているだろう、月の高さが見えてこない。
見た目に楽しそうな二人の後ろで、奮闘する戦士が、人知れず溜め息を吐いている。
「ハイキングじゃねーんだぞ、お前ら」
そう釘を刺しておき、さらにマツオカを背にかばう余裕。
しかし、見事な剣さばきで、ヤマグチは二体の一角ウサギを両断していた。
実に、戦い慣れている。ナガセは目を瞬かせた。
あれほどの剣技を身につけようとなると、さすがに二年では、無理なのかもしれない。
「余所見するな」
「はいっ、ごめんなさいッ」
じっくり見ていたら、怒られた。
返事と同時に振り返って、ナガセは練習用に借りた銅の剣を構える。
飛び込んできたバブルスライムの動きを見極めて、その攻撃の直前。寸分のうちに、斬り込む。
「……っと、わわッ」
加減の出来なかった剣先が、塔の石壁を掠めた。
刃の傷む音に怯むことなく、体勢を整えたナガセの目が、即座に次の動きを探している。
……幾分か、マシな顔になってきたじゃねーか。
ヤマグチは口元だけを笑わせると、最後の一角ウサギを仕留めた。
さて、すっかり戦闘の片付いたところで。ひよっと、どこかから現れたマツオカが辺りを忙しげに確認してから、ほっと一息。終了の合図代わりに、ぽんと手を叩く。
「はいはーい、おつかれっ。二人ともケガしてないね?」
「……マボ。何もやってないじゃん」
「オレ、僧侶だもん。僧侶に戦わせんの?」
実際のところ、魔物退治専門の僧侶も大勢いるし(マツオカの養父に当たる僧侶などが、まさしくそうで)、僧侶用の攻撃魔法、武器防具も一応揃っている。
彼が今現在、戦闘に参加しない理由は、至極明快である。
「武器持ってないし。攻撃魔法、得意じゃないし。てか、使うことになるとは思わなかったし……」
ようするに、手持ち無沙汰なため、単純に肉体労働したくないらしい。
ヤマグチが細い目で軽く睨みつつ、肩を落とす。
「だったら、ナガセの毒でも治療しとけ」
「うえッ、毒!?」
「放っておくと回る……あ、ナガセ、そのまま止まれ」
情けない声を上げたナガセに静止を命じて、マツオカを手招きした。
動かなければ回らない、バブルスライムの毒のようである。
「ん、出番?」
この異常(弱冠)事態に、ちょこちょこ近寄ってきて意外にも冷静なマツオカが、ナガセには頼もしくもあり、ちょっと不安でもある。
「“……悪しき邪気を払う浄化の光を”」
軽いノリそのままに、口元で小さく神言を詠唱する。
さりげなくかざした右手を、淡く青白い光が包む。
光の霧がふわりと、ナガセの目の前をも照らした気がしたが、次の瞬きの間に消えていた。
「ほい、終了」
呆気ないマツオカの一言に、ナガセは反応も出来ない。
点目のまま、ぱぱぱと、自分の腕をシェイクしたり、回したりしてみるが、どこにも異常は無い。むしろ、軽い。
「……すっごいマボ! やっぱ魔法使えるんだー!」
「お前……人を何だと思ってるわけ?」
「何ちゃって神父」
「おい」
笑いかけたナガセだったが、次の彼の行動に、表情が固まってしまった。
マツオカは、足下に落ちる魔物の残骸をこまめに寄せては、場を清めてやっていたのだ。
「魔物の善悪って、付け難いんだよね」
そう言いながら、モンスターの痕に向かって小さく十字を切ったのを見て、ナガセの心は、少し、いやだいぶ、痛む。
「ナガセ」
思うところを悟られたのだろう、ヤマグチに名を呼ばれた。
「あんまり考えるな……ってのはキツイかもしれないけど。今は割り切っとけ」
「……うん」
そう簡単に割り切れるものでは無いと、ヤマグチも解っている。
こと、ナガセに関しては尚更だ。
二年、間近で見てきた彼の剣技は、最後の一歩が、いつも優しい。
「行こう」
迷っていること自体が矛盾なのだ。
いくらかは上達した剣技を、何のために使うのかと聞かれれば言葉に詰まる。
練習と実戦とは全くの別ものだと、頭では分かっているはずなのだ、頭では。
ふいと、颯と顔を上げたナガセは、フロアの奥を目指して歩き始めた。
その歩みとは裏腹に、やり切れない思いが表情に出てしまっている。
ヤマグチの覚った目と、マツオカの援護を促す目が合った。先に走り寄ったのはヤマグチだ。
「おい」
「うぉ……ビックリしたあ」
その背後から、ナガセの首根っこを肘でがしりと固めてやる。
「……よし。やっぱり考えるか」
肘固めで後ろに回せない視界の隅で、ヤマグチが笑う気配だけがある。
ナガセは言葉の意味を考えあぐねて、大きく見開いた瞳で、三度瞬きした。
「え、ええ?」
「考えて考えて、自分で答え出すほうが早い」
いつのころからか、世界には多種多様な生物がいて、モンスターと言われる怪物、いわゆる魔物も存在した。
各国を渡り歩く行商人、旅人、冒険者、多くが不幸にも魔物によって命を落とす。
そして実に難儀なことに、モンスターに襲われたら、反撃するしか身を守る術が無いのである。
「冒険者、なりてーんだろ?」
「……」
ナガセは黙ったまま、だが強く、うなずいた。
その目に覇気が戻っていることに、マツオカは少なからず安堵する。
「ま。んな小難しいこと考えるの、お前には無理だろーけど」
「あー! ひでぇマボ!」
幼なじみの毎度のどつきあいを横目に、ヤマグチは少し眼を細めて、一人の戦士という立場で、フロアを振り仰いだ。
絶対に避けられない問題のひとつふたつ、諦めてしまえば、確かに片は付く。
だが、ヤマグチは時折、思う。
どんなに不変的なことでも、自身の倫理に反する限り認めない、そんな往生際の悪い人種の中に、今、目の前に立つ一人がいる。
本当に行動を起こせる人間がほんの一握りだとしても、彼ならば、否、彼だからこそと、ヤマグチは当てのない期待をかけてしまう。
過大評価しすぎなのだろうか?
ナガセが、いつか世界の摂理すら変えてしまいそうな、そんな青年に見えるのは。
扉一枚隔てた向こうを、いくつかの物音が通りすぎていく。
この会話の無い空間には、音が大きすぎる。
「騒がしいな」
口にすると、さらに鳴り響く物音が臨場味を増すようだった。
反対側の壁にもたれて座り込んでいた青年が、のろのろと顔を上げる。
「モンスターでしょ?」
「“何か”が来ないと、ここのモンスターは動かねぇよ」
聖水で結界を張ったこのフロアに、扉を蹴破ってまで侵入するモンスターはいない。
そもそも、周辺一帯、またナジミの搭に住みついたモンスターは、聖水を投げつけるだけで退散してしまうほど、保守的でレベルが弱いのだ。
二人の敵ではない。
近づいてきているのは、“別の手強い何か”、だ。
耳を欹てると、階下に複数の靴音が響いていることに、簡単に気がついた。
「……潮時か」
決意とも悔いとも取れる一言だった。
耳にした青年はしばらく瞑目し、迷いだ思惟を振り払い、立ち上がる。矢先、荷袋を探り出した。
“別の手強い何か”に対抗するために。
その淡々とした様子を横目に入れながら、低い窓枠から覗いた空には、星がぽつぽつと散っていた。
キアリー : 毒消しの魔法。